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前後截断録 第69回


(九)開戦——主水の最期



井伊軍全軍右翼に備えた川手隊の主将主水景倫は愈々時節が到来したと感じた。
陽は冲天から輝いて耐えられないほどの暑さになっている。

web用若江八尾
今年6月頃撮影の若江堤、現在は第二寝屋川と呼ばれ、大幅に改修されている。
右手が井伊直孝の陣、川を超えたあたりが主水一番槍(死に至る重傷を負う)の地。
同じ左手側に、井伊に陣場借りをした山口重信の古塚がある。

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山口家重代の宝器、黒韋包腹巻(南北朝時代)
(井伊達夫採集史料写真)

若江古図web用
若江堤古図(山口氏墓碑)

 両軍から人馬の音が一瞬消え、これから地獄の修羅場となるであろう戦場が無人の曠野のような静謐に覆われた時、井伊右翼先頭から一騎が堤を超え、敵陣に突入した。主水である。

 かれは先駆突入の直前、槍を右手に高く掲げ、自軍をふり返って——「我は是迄ぞ、者共、懸れ!」と号令した。勿論直孝の攻撃発令は出ていない。無断の先駆けである。隷下の士卒は約1200余。全軍が主水の号令に従ってドーォッと歓声をあげ、堤上から飛びおりるようにして突撃を開始した。

 主水は完全なる単騎突出である。この時前述のような槍を持って指揮したのではなく采を振(ふる)ったという説もある。ともかく、主水は単騎で敵前へ躍り出た。馬は父から最後の餞けにもらった優駿であるから、その速度には誰もついて行けない。

 そして主水はアッという間に敵の槍ぶすまにかかって落馬した。一説に突撃の前、主水は弓や鉄砲を斉射し、整々と馬をのり出したと書いたものがあるが、それは格好づけした講談である。主水にそんな気分的余裕はなかった。「お芝居」など要らない。ただ突出し戦死あるのみである。

 主水は敵の木村勢前衛に襲われ落馬し、集中攻撃に遭った。兜の天辺を太刀で打ち叩かれ意識不明になったところを、敵の武将平塚熊之介が首を掻こうとしたが、主水配下の軍士たちの働きでとも角も主水を味方井伊隊の内に収容した。主水はこのとき既に虫の息で、その夜遅く息をひきとった。二十八歳である。従士の万沢又右衛門、遠山甚次郎、河合弥五介らも主水に続いて勇戦、皆討死した。

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川手主水大坂陣着用と伝わる朱具足より、兜拡大図
大変な一撃であることがわかる。

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金沢21世紀美術館『甲冑の解剖術』展より、川手主水朱具足展示風景

 この一戦における井伊、木村東西両軍の戦いは、川手隊の主水負傷において一時的に井伊軍は崩れたが後半もり返し、終局、井伊軍が敵将木村重成を討ち取って勝利した。

 今にのこる「木村公園」が重成戦死の遺跡とみるならば、木村軍は井伊軍を玉串川向いの堤防下へ追い落とし、大奮斗をしていたことが窺われる。木村軍は井伊軍の芝生(戦場での占有地を示す古語)をかなり奪っていたことになる。

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 大坂方木村重成勢と戦って先駆した川手主水の戦い方は、はじめから死を決した突撃であった。これは既述した如く、おのれに非情を以て対した主君井伊直孝に対する意趣返しである。主水にとって、この際最もおのれを際立たせて死ぬことが結果として直孝を大きく困らせる最大の方策であったのだ。

 備えの中でその一翼を担う武将が、軍規に反して勝手な行動をとれば全軍敗北のきっかけになる可能性がある。軍律に於てしばしば抜け駆け、先駆を禁じているのはそれによって軍中の一致が崩れ、攻守共に均衡が破れてしまうからである。
もとより主水は左様なことを十二分に知っている。知った上での突撃と、その結果の死である。

 幸いに井伊直孝勢は木村重成軍を破って重成を討ち取り大勝利したけれど、勝利したからといって直孝は主水を赦す気持ちにはなれなかった。なぜなら、違法とはいいながら主水は敵中一番乗りを果たし、見事に戦死したのである。華々しい活躍と死を果たしたのである。

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井伊直孝大坂着伝の朱具足


 勇名は事を知る人々の間ですぐ拡散する。直孝は苦々しい思いである。実際のところ、主水は直孝にみごと復讐を果たしたのである。このことによって、主水対直孝の浮世の意趣は清算された。だが直孝は面白くない。

 暑熱の候である。主水の遺骸は直ちに荼毘に付され、わずかな遺骨のみがのこされた。

 後年、幕府の大元老となる直孝もこの頃は血気壮んな猛将である。主水を城下の寺に葬ることを禁じた。本来は城下長純寺が葬地となるところが、城下南郊の主水采地の一部に当る「大三昧」という荒蕪荒林の地が、永遠の眠りの場となった。これが今に遺された主水の墓であり、彼にとって聊かの慰めとなったのは、息子の墓が共に在るということぐらいであろうか。

河手主水墓
著者再発見当時の主水親子の墓

(続)

※禁無断転載

前後截断録 第68回

川手主水覚書(速報版)

(八)若江堤 -2


古三原(直孝)
井伊直孝佩刀(木俣半弥守明拝領)無銘 古三原


 その様子をつぶさに窺っていた宮内が進言した。
「——かの前軍は足並みも揃わず、槍先も不揃いでござる」
あれを卆いるは若大将とみえまする——と断言した。
更にこの戦いの最も重要な台詞を、宮内は進言する。

「・・・・・・あれなる堤をわれらが先取り致すこと大事でござる」

 直孝の本陣から宮内が指差す川の堤まではおよそ150間ほどもあろうか。川の名は玉串川という。一寸長雨が降るとすぐ氾濫決壊する荒川でもあるが、この時期川水は周辺の用地に灌漑用に送られていたので川に水はなかった。所々に人の頭程の石はあっても、概ねは小砂原であった。
あの堤を先取すべしと宮内が進言したことは、井伊隊全軍に電撃を走らせた。干戈を交えるのは、目前に迫ったのである。
天井川であるから、川の堤防の位置は平地より大分高い。戦術としては至極妥当な献策である。
 
 「——速やかに御発進のこと肝要かと」
大本営ともいうべき家康の本陣からは、交戦許可はおりてはいない。しかしいくさの第一義は、先攻先勝である。勝たねば意義はない。直孝は馬上になり、白い陣羽織の上から締めた腰帯に差した采配をぬいて揮おうとした瞬間、前衛の方で大きな喊声が起こった。
 前衛に遣わせていた使番が戻って来て報告した。

 右先鋒の川手隊が、本営直孝の指揮をまたず玉串川の堤を占拠したという。喊声はこのときのことであるらしい。これにつづいて、川手の左に備えていた庵原隊も堤上に上がった。片方だけの別行動は敗軍のもとである。老将庵原助右衛門朝昌の行動はすぐさま使者によって、直孝に報知されて了解を得ていたが、川手からの連絡は間があいた。
 直孝は心中、焦(いら)ついている。

 二軍にわかれて進んできた敵勢は、やがて左右にわかれて展開しその右軍は若江近くの在所に本陣を置き、前衛は尚も進んでやがて井伊軍前衛と川を挟んで対峙する形になった。井伊勢がこの敵軍を木村重成隊であることを認知した頃、木村の本隊では重成がやや早い昼飼をとり終った頃である。

 敵の兵力は、井伊勢と甲乙はなかったらしい。しかし直孝の軍師岡本半介は味方にこう宣伝した。敵兵の殆どは数日前、一日いくらの駄賃で雇われた連中である。中には明日の夜で契約の切れる者も少くない。所詮烏合の衆なれば、なんの恐るるところもない——と。


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岡本半介井伊家系図
井伊家最古の系図
井伊直政、直継、直孝、三代の井伊家創業に係る藩主に仕え自らも上泉流の軍師として、井伊軍の軍配を預かった名臣岡本半介宣就(無名老翁・喜庵)が寛永二十一年に考証記録した自筆による井伊家系図。
井伊氏の系図としては藩公認現存最古の系図となる。あく迄男系を尊重した古系図のやり方である。次郎直虎時代の生き残りが存在していた時代、また自らも井伊家史の学者を任じていた当代一流の人物が著したものとして、時代の風潮を偲ぶ重要な史料といえる。
井伊美術館HP「井伊家系図」より

(続)