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『野田浩子著 井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)』贈本をうけ

思うことの草々
(三)



(二)はこちらから

もうひとつ、またここで野田氏は重要な誤りを犯していることを書かねばならない。この『公用方秘録』がどこの所蔵のものであるか、一切記していないことである。史料の出処をここでも彼女は故意的に省略し、その所在を漠然とさせているのだ。

本当にこれは困った行為である。せめてここでは『公用方秘録』の成立とその所在背景及び史料の本来の身許についての解説が絶対的に必要な場面である。執筆者として最も履行することを閑却してはいけない、史料の出典を省いているのは言語道断の行為ではなかろうか。つまりは、「親切なひとこと」があるべきと思うが、彼女の同史料に対する理解はないから、前記のごとく研究者にあるまじき切捨てを平然と行ってしまう。この「平然」が怕(こわ)いのである。
実の処、 『公用方秘録』についてはもう充分の研究検討が施されているから彼女の新しい口入(くにゅう)の余地は、実はどこにもないと思えるのである。「歴史」を研究するものがまず心得の第一にしなければならないことは、その対称がヒトであれモノであれ、いずれにしてもまず取扱を丁寧にしなければならない。わかりやすくいえば史料そのものとその所在者に対する「感謝」と史料に対する「博愛」の心を持つべきである。もとよりその加減は難しいが、「典拠不明、浅薄独断」は自己制御を利かせて慎むべきだろう。氏の執筆態度はいかにも薄情である。そこに「歴史」に真摯に対(むか)う者の優しい視線はない。

歴史に対する「優しさ」とは何か。それは「公平な視線」である。当然ながら自己の好悪による史料の選択解釈に、公平な目線はない。歴史は活物(いきもの)である。ひとつの事実にはいろいろな要素が絡み込んでいる。複雑であるが、それを解き量り実態をみるには、公平な秤と匙による加減が必要である。
多分この人はこの調子で、どこかで自説をのべ、その出典には殆ど拘らず、必ずしも正しくない偏った歴史の指導教育をしていくのであろう。どうしてもそのように推測させられてしまう。文章表現上の振舞いを見ていると、そうとしか思えない。
花鳥風月の上に独断を馳せるのは勝手だが、史上の人物の事蹟を述べた歴史的史書類の出所や所蔵先を記さず無断転用し、自儘な解説を施すことは許されないと思う。本稿一読の識者はこの、歴史への違反性をよろしく諒解して頂けると思う。

 また、贈本してくれた「井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)」の著者野田氏には、それが因で、本稿の「果」が生まれた故、皮肉なはなしだがとりあえずは遅ればせながら御礼申し上げなければならないだろう。だが著書の寄贈を受けたからといって、その著者及び著書の問題性に口を緘するわけにはいかない。歴史叙述は空想物語ではない。それを述べる上では、典拠史料の引用は不可欠である。その場合当然その所在は明確にすべきであり、刊行上梓に臨んでは時に所蔵者の許諾が必要であろう。
いうまでもないが、歴史は「述ベテ作ラズ」である。この警句があるゆえんは往々にして「歴史」がその著す人間の独断によって都合よく取捨選択され、結果としていわゆる「述べて作られる」からである。かかる場合しばしばその根拠は示されない。根拠がない独断専決が多いから、そうするしか術がないのである。正々堂々の道を行きたい。格好をつけるようだがこれは歴史を研究し叙述する者への標語であり、警句である。
寄贈された野田氏の本を本気で拝読すれば、まだ他の問題が出るおそれなきにしもあらずであろうが、この度は取り急ぎ以上である。もっと早く発表したかったが、日常の繁忙に追われ、多日を要してしまった。末筆ながら改めて野田氏の率直な反省と更なる御精進を希う次第である。('24 2.1)



(補記——本稿を発表しようとした矢先、歴史に詳しい知人が野田氏のHPを教えてくれた。読んだのは井伊の筆頭家臣となる木俣守勝の事績をのべたところだが、その典拠資料は『木俣土佐武功紀年事記』というもので、彦根城博物館蔵の写本に拠ったものである(原本井伊蔵)。しかしこの書は私が考証した結果、残念ながら偽書であることがわかった。

3
木俣家古記録の内 
武功紀年自記

4
木俣家古記録の内
国語碑銘記(木俣守長述)
(いずれも井伊蔵)

 なぜ偽書なのか、遺憾ながら野田氏は夢にも気づかないし、また確認することはまずできないであろう。史料の真否及び考証は自己の文章に引用するまでに、充分に尽くされなければならない。因みに「木俣文書類」の大方は只今私の所蔵となっており、『新修彦根市史』にもかなり大部に引用を諾して利用してもらっている) 

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