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前後截断録 第35回


恐怖の「スイアゲ」① 幼い頃の記憶
—吹雪ニモ嵐ニモマケナイガ—



 小学生の一時期、それまで育った彦根駅前から移住して近郊の農村豊郷にくらしたことがある。転校せず彦根城東小学校までの日祭日以外は毎日汽車で通学した。「通学」とカンタンに書いたが、村から東海道本線河瀬駅まで歩き、そこから彦根駅で降りて、江戸町といった学校まで一時間余り。往き帰り二時間を殆ど怠ることなく頑張った。

 怨みごとではないが昭和27、8年当時、10才になるかならぬかの小童が一人で田の中の淋しい道を明け暮れ通学するのである。今にして思えば一人息子であるわたしに考えられないほど危険な日常を母はさせていたことになる。片道およそ2、3キロと思われる。大きく、小さくくねくねと曲がった田畔に毛が生えたほどの頼りない道を、雨の日も風の日も、それこそ吹雪のときも嵐のときも、雪ダルマのように、濡れネズミのようになっても、通い続けた。本当によくやったものだとこの頃振り返って思うのである。とくに冬は堪えた。風雪が烈しいと飛ばされそうになる。刈り取ったあとの稲束を長い組竿の上に架け並べた、あの時、あの土地では「オサ」とか何とかいったが、その陰に忍んで凍えた両手に息をあて風冷に耐えたこともしばしばであった。帰りみち駅を降りて小さな数軒の駅前の家々をすぎると、あとは一面の田野で、帰る村の目印である森が彼方にみえるのだが、吹雪くと、その森がもうみえないときがある。心細く、頼りなくて、もう泣きそうだったが、耐えるしかなかった。道はそれしかなかったのである。

長久手
田野も用水地も昭和40年代には大きく変貌し去った

 この時の田舎でのいわゆる艱難辛苦が、今の自分のバックボーンになっている。あの頃の苦労を思えば、現在の万事は何事もタカの知れたことだと思えるのだ。
 さて、ここから本題に入るのだが、当時あるいは現在でも同じであったろうけれど、田野の中に田畑灌漑用の揚水場の池があちこちに散在して設けられていた。俗にスイアゲ(吸い上げ)といっていたが、田植えどきになると、これらの揚水場に設置された揚水用ポンプのモーターが稼働して、勢いよく水を吸い上げ、水路から田毎へ水を運んだものだが、農閑期になると当然ながら働くのを止めて止まる。
 揚水場の池は井戸の様な小規模のものからプールほどの大きさの深いものまでさまざまであるが、これが夏から秋にかけ動かなくなって止まってしまうと、アッという間に池の中に苔や水草などがヘドロのように溜まって化物の棲処(すみか)のようになる。池には揚水のための鉄菅がポンプ小屋(これも大小いろいろある)から出て、青深泥の水の中へ逆「くの字型」に潜り沈んで、黝く消えている。それはどこまでも底なしに長くのびて沈んでいるように、幼いわたしには思われた。

 この揚水場の大型のやつが、当時既にモータがいたんで何年も使われていないのが、通学していた農道の途中位にあって、いつもわたしを脅かした。なぜならそこには子供のふた抱え程もあるすごく太い大きな鉄菅が赤黒く錆びて万年溜めのように青く淀んだ水の中へ潜りこんでいるのだ・・・。溜池の周囲には防護柵など何もない。ちかづいて覗くこともあぶなくておそろしいからできない。帰りが遅くなった夕暮れにここを通ることは、まさに「逢魔ヶ刻」の大冒険だった。村の子供らは危険を承知だからこんな刻、こんな場所を一人で行ったり来たりはしない。そんなことをしていたのは自分一人であったことを後で知った。無事息災であったことが不思議なくらいである。

 要するに揚水場—スイアゲ—の不気味なおそろしさは、特にその幼時の恐怖は、自分の筆力ではここに書きつくすことはできない。宮沢賢治の詩ではないけれど、ふぶきやあらしには負けないがこのスイアゲは今思い出しても怕い。

 直径二メートルほどの井戸に10センチほどの鉄管が側壁から井の中央に直角に曲がって入っている小型のスイアゲが村の森の傍にあって、そこに白い蛇が巻きついているのをみたのもその頃のことである。あの蛇は一体どうして外へ出るのだろうか。今でも不可解で、ときおり記憶に蘇って考え込んでしまうことがある。あのとき蛇の目と自らの目線が合ったままだった。蛇の目は、こちらを凝視しているのは当然なのに、魅入られたような気味悪さだった。恐怖のスイアゲの話しはまだ続きがある。
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