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前後截斷録 第72回

翔べ、鬼ヤンマ



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あこがれの鬼ヤンマ(おにやんま君)

夏も盛りになると、鬼ヤンマがとんでくる。夏の風物詩の典型である。先日高台寺下、菊渓川暗渠の道を散歩していたら、鬼ヤンマが道に落ちていた。珍しい光景である。みたら、揚羽蝶をたべている。大型の揚羽蝶である。通行人など一切無視して一心に喰べる。おのれの命の危険など全く頓着なさそうだ。勁い姿に一瞬みとれた。

鬼ヤンマには古い憶い出がある。一番古くて強烈なのは、彦根駅前上新屋敷町に住んでいた頃、その前の道を東から西へ母と共に歩いていた。小学校一年生時分のことだったろう。すると向こうから、西から東へ、僕らの歩いてくる方に向って、一直線に鬼ヤンマが翔んで来た。まさに一直線、天下無敵の飛翔である。それが僕たちをまるで目がけるように真っ直ぐにやって来た。アッと思った瞬間、その鬼ヤンマを母は右手で捕えたのである。鬼ヤンマも疾かったが、母の動作も疾かった。

気がつけば鬼ヤンマは母の右手中にあった。私は母の右手を握っていた筈だが、——いつの間に捕ったのか。文字通り私は瞠目して、「——おかちゃん、すごいな!」と叫んでいた。凄い手わざだと感心したが、よくみるとそいつは大きな蜂を喰っていた。おのれが母の手中に落ちたと知りながら、バリバリと喰っていた。
もう古い憶い出だが、鮮烈な印象は今もそのままにある。あの時の鬼ヤンマの、獰猛さは何処から来ているか。捕まった現状の殆うさは考えにないのだろうか。喰っている今、この時こそがとりあえず肝要なのだろう。

あれから何十年もの間、鬼ヤンマは数えきれぬほど見た筈である。京都でも、住まいの近く東山、霊仙谷をのぼって下がってくる道すがら、谷道の下から一直線に登り道を翔んでくる姿をみて胸おどらせたこと度々である。瞬間本能的につかまえたい!とそのたびにドキドキしたが、手捕りなどできる筈がない。母の昔のあのファインプレーは、本当に千にひとつの偶然の倖せであったのだ。歳を重ねるごとの時々に、このことが思い出されその姿が鮮やかに脳裡に蘇る。


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彦根往古絵図(筆者蔵)佐和山古城址と千代神社の位置関係——このあたりが鬼ヤンマやクマゼミの主要ハント地だった


鬼ヤンマでは、もひとつ痛い記憶がある。彦根の東郊、佐和山の南麓に千代の宮の神社があった(今は市内に移転されている)。ここから山手にかけての一帯は、私達ガキ連の貴重な遊びの場所であった。思い立ったらそこへ遊びにゆく。大抵は数人連合であるが、しばしば一人の時もあった。その一人で遊びに行ったときである。
大きい鬼ヤンマが、高く伸びた一本の雑草の頂辺に止まっていた。全体トンボは何かに止まって翅を休めると、ヘリコプターの主翼のようにハネを少し己の脚の方へ向って下げる傾向にある。そいつは、ハネを休めていた。しめた!と思った。こいつを捕まえてやろう。

ふつうこういう状況にいる鬼ヤンマにであうと、少年は前後の見境を失うことしばしばである。私もその通りであった。凝乎と息をひそめ、それこそ草木にもさとられぬほど息を詰めて鬼ヤンマに近づいた。最初見たとき彼我の距離は七・八メートルもあったろうが、捕まえるときは絶対的に鬼ヤンマの背後から迫らなければならない。よし、この調子なら旨く行く。四メートル程になって、そう思いつつ、心中莞爾としたとき左膝に激痛が走った。鉄条網である。そこには外部の者の侵入を拒むあの凶悪なトゲだらけの鉄条網が敷設されていたのである。何とそれを、その危険性をうっかり忘れていた。あ、痛ッと思いながらも、僕は鬼ヤンマの方を見た。——!しかしそこには既に奴はいなかった。奴のいた一本の雑草だけが、少しく風にゆれ、いやに勁い草にみえた。

血が流れていた。やってもたなア——何より母のこわい顔が浮かんだ。やってもた——自分でも呻くように呟いたのを昨日のように思い出す。慚愧に耐えない。
この傷跡は、今も私の左脚に深くのこっている。膝頭から脛の下にむかって、鉄条網による複数の刺のアトが生々しい。あのあと母の手前をどう繕ったのか、全く記憶は失われている。
あの鬼ヤンマは、つかまえたかった——。

先日、家人が鬼ヤンマをプレゼントしてくれた。プラスチックの出来物だが、これを蛍光灯のプルの下に括り付けておいている。ハネの具合、尾の反りや黒と黄の調子、そしてまず一番にあの碧玉のような複眼の大きい目玉——。すべて本ものとは違うが、眺めていて悪くない。1日に何十回もみるが、飽きない。そいつはクーラの風などに煽られてゆるく周回するばかりで何もないが、奴はいつもこっちをみている。やっぱりこいつは翔んどるんだな。——翔べ、飛べ、もっと翔べ——いつまでも。


元気なうちに、もう一度鬼ヤンマを捕る。——捕らえるぞ!


2023.8.8

2023.09.16 訂正
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