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前後截断録 第68回

川手主水覚書(速報版)

(八)若江堤 -2


古三原(直孝)
井伊直孝佩刀(木俣半弥守明拝領)無銘 古三原


 その様子をつぶさに窺っていた宮内が進言した。
「——かの前軍は足並みも揃わず、槍先も不揃いでござる」
あれを卆いるは若大将とみえまする——と断言した。
更にこの戦いの最も重要な台詞を、宮内は進言する。

「・・・・・・あれなる堤をわれらが先取り致すこと大事でござる」

 直孝の本陣から宮内が指差す川の堤まではおよそ150間ほどもあろうか。川の名は玉串川という。一寸長雨が降るとすぐ氾濫決壊する荒川でもあるが、この時期川水は周辺の用地に灌漑用に送られていたので川に水はなかった。所々に人の頭程の石はあっても、概ねは小砂原であった。
あの堤を先取すべしと宮内が進言したことは、井伊隊全軍に電撃を走らせた。干戈を交えるのは、目前に迫ったのである。
天井川であるから、川の堤防の位置は平地より大分高い。戦術としては至極妥当な献策である。
 
 「——速やかに御発進のこと肝要かと」
大本営ともいうべき家康の本陣からは、交戦許可はおりてはいない。しかしいくさの第一義は、先攻先勝である。勝たねば意義はない。直孝は馬上になり、白い陣羽織の上から締めた腰帯に差した采配をぬいて揮おうとした瞬間、前衛の方で大きな喊声が起こった。
 前衛に遣わせていた使番が戻って来て報告した。

 右先鋒の川手隊が、本営直孝の指揮をまたず玉串川の堤を占拠したという。喊声はこのときのことであるらしい。これにつづいて、川手の左に備えていた庵原隊も堤上に上がった。片方だけの別行動は敗軍のもとである。老将庵原助右衛門朝昌の行動はすぐさま使者によって、直孝に報知されて了解を得ていたが、川手からの連絡は間があいた。
 直孝は心中、焦(いら)ついている。

 二軍にわかれて進んできた敵勢は、やがて左右にわかれて展開しその右軍は若江近くの在所に本陣を置き、前衛は尚も進んでやがて井伊軍前衛と川を挟んで対峙する形になった。井伊勢がこの敵軍を木村重成隊であることを認知した頃、木村の本隊では重成がやや早い昼飼をとり終った頃である。

 敵の兵力は、井伊勢と甲乙はなかったらしい。しかし直孝の軍師岡本半介は味方にこう宣伝した。敵兵の殆どは数日前、一日いくらの駄賃で雇われた連中である。中には明日の夜で契約の切れる者も少くない。所詮烏合の衆なれば、なんの恐るるところもない——と。


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岡本半介井伊家系図
井伊家最古の系図
井伊直政、直継、直孝、三代の井伊家創業に係る藩主に仕え自らも上泉流の軍師として、井伊軍の軍配を預かった名臣岡本半介宣就(無名老翁・喜庵)が寛永二十一年に考証記録した自筆による井伊家系図。
井伊氏の系図としては藩公認現存最古の系図となる。あく迄男系を尊重した古系図のやり方である。次郎直虎時代の生き残りが存在していた時代、また自らも井伊家史の学者を任じていた当代一流の人物が著したものとして、時代の風潮を偲ぶ重要な史料といえる。
井伊美術館HP「井伊家系図」より

(続)
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