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前後截斷録 第65回

川手主水覚書

七 主水の怒り 続

 井伊直孝を迎えた彦根士衆は戦勝気分で湧き上がっている。本来の城主井伊直継はこの冬の陣中上州安中へ赴かされ、碓氷・牧両関所の守衛の任務に当らされた。「関守」といえば聞こえは悪くないが、この天下大戦の切所の現場に臨むことを許されなかったということは軍務における直継の確実性を家康が認めていなかったということである。早くも彦根の士衆の間では風評が立っている。新しい城主は直孝様になるそうな・・・。

 この頃の木俣邸、そして守安の周囲には俄か名士木俣右京の知音にならんとする井伊家士たちが集って門前市をなす賑いである。
その理由は守安と直孝の間の公私にわたる交誼の深さが人々に知れ渡ったからである。聞くところによると、冬の陣の功名穿鑿も直孝は木俣守安に一任したと言う。その為か冬の陣・真田丸における井伊家家士の進退如何の状況捜査も、軍目付衆の木俣邸への出入りの頻繁さによって大分進捗してきたらしい様子である。

守安
菱綴腰取二枚胴朱具足(木俣守安所用)
木俣守安が大坂夏の陣着用後、島原の役の際親交のあった武川源介に餞別として贈った具足。
約束通りの桃山〜江戸前期具足の典型で、変わっているのは塗りを刷毛目塗りにしているところである。
彦根井伊家老木俣家代々の具足はこの具足以後、すべてを刷毛目塗りにすることを慣例とした。
この具足はいっとき伝来を喪って、甲冑や有職の研究家であった山田紫光翁の蔵品となり異なった伝来がつけられていた。
(「赤備え —武田と井伊と真田と—」より)


 一方川手主水の邸前は閑寂なものである。屋敷は現今の井伊家下屋敷楽々園八景園のある辺り、広大な邸宅である。当時彦根城本丸の四囲は東側に御殿の地がありそのほかは重臣邸で囲み守られるように配置されていた。即ち御殿から内堀をこえた東に椋原算三郎、西に、大手口を入ったところに鈴木主馬、北西木俣右京、北東に川手主水という具合である。これら重臣邸はいずれも上屋敷で、そのほかに格禄に応じて中屋敷、下屋敷を賜っていたから、いずれも盛大なものであった。更に当時は彦根築城第二期工事の最中で、大坂陣によって本工事は中断されていたが、築城保守の普請は彦根山のそこ、ここで継続されていた。新城下となった彦根は好況であったから、一般的に言って士庶の表情はあかるかった。

 主水の心中はそのような世間の状況とは裏腹に、底知れぬ孤独の渦の中にまきこまれ、落ち込むばかりであった。早く死にたいと思った。もう今すぐにでも死にたいと思った。身辺の整理は既にできている。

 しかしいくら死にたくとも平場の死、畳の上の往生はお断りである。まず慌てるな——と主水は自らに言いきかせた。冬の陣が終ってから井伊勢が他の寄手衆と共に大坂城外濠の埋め戻し工事に従事したが、大勢の風聞では近いうちに大坂再征は必ず行われるという。死に場所に困ることはない。日々色んなことを考えているうちに、主水は大事なことを忘れていることに気付いた。今のうちに実家の父兄に会って、訣別の挨拶をしておかねばならぬ。主水がそのことを思いついて実家の松平康安(しげやす)のもとに赴いたのがいつであったかははっきりしない。父の康安と兄志摩守重成は主水来訪の趣旨を疾くに了知していた。

 主水は冬の陣講和後、前後の状況を既に父兄に報知し、近い内の再会を約すと共に幸便に任せておのが所用の貞宗の太刀と、川手家の系図一巻を前以て遺品として贈っていたのである。この処置は、主水を取り巻く周囲の状況が予断を許さぬ不安定なものであったからに他ならない。

 冬の陣では主水と木俣右京の間に意趣が生じている。新城下で主水方と右京方で争論でも発生したら何事に発展するやも図り知れぬ。明日の安命はお互い、期すことができないのだ。

 そのような事情のもと、主水は父松平康安と兄重成、その他実家の人々に再会したのである。
主水は冬の陣でもかれの馬廻りとなった手飼いの勇士、万沢又左衛門、遠山甚次郎、河合弥五介らを同伴していた。主水はやがて来るであろう死出の旅路の朋となるかれらを父兄に紹介しておきたかったのである。

 このとき康安は伜主水景倫について幼時からの思い出を語り、彼等に次のようにいった。

(続)


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2022.09.19 人名など一部修正しました。
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前後截斷録 第64回

川手主水覚書
(主水のうしろ姿を追って より改題しました)


(七)川手主水の怒り


 大坂冬の陣真田丸攻囲に係る古資料をみてみると、井伊軍先手は二組でその一が木俣右京、もう一組が川手主水であったとしている。しかし先手木俣の相組は川手ではなく鈴木主馬であったとする説もある。この異説によると川手主水は後備となっている。前述した鈴木主馬組の侍たちと右京との真田丸での言葉争いを考えると、先手は木俣と鈴木であったと考えるのが妥当である。

 いずれにせよ、冬の陣において川手主水および彼の所属(いわゆる組士、寄騎)侍たちは何もしなかった。軍令を守って鎮まっていた。この行動は総大将徳川家康の触れ(軍令)を忠実に守っていたのだから主水および川手隊は正しかったのである。「もののふの正道」を行っていたのである。しかし、しかしである。家康が法度違反者の木俣守安を褒めたばかりにかれの武名、勇名だけが喧伝されて井伊軍中、否寄手の軍中にサムライは木俣だけだといわんばかりの世評になってしまった。寄手の中に侍は多けれども勇気第一等は井伊が家中の木俣右京(守安)唯一人と「確定」されてしまったのである。

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直孝宛 伊達政宗書状
井伊勢の真田丸攻撃、木俣守安の勇戦を聞いて直孝に宛てて出された政宗の見舞状。政宗自筆に係る。文中、井伊勢の抜け駆け、つまり軍律違反に対し、「それはそれかあろうけれど、そうでなくっちゃいけないね——」といった政宗の感情を述べたもの。政宗の政治性が窺われる貴重な一書。(井伊達夫採集文書の内)

「——こんな莫迦なことがあるか」と思ったのは川手主水景倫である。

 勇気がなくて真田丸へ飛び込めなかったのではない。あく迄軍令に従ったまでだ。何ともこの唯今の世評は不条理だ。理不尽である。いつのまにか寄手の侍衆の間では、井伊の家中、木俣以外は侍ではなきかの如くに扱われている。主水他井伊の士卒は徒衆(あだしゅう)の集りであるそうな。

 主水は我慢ができない。黙ってはいられない。主水のこの思いに拍車をかけたのは主将井伊直孝の行動である。直孝は守安が真田丸に突撃し、負傷した十二月四日の夜、自ら親しく守安の幕営を訪い、負傷の程度を窺い、慰労を尽したのである。
かれの怒りは心頭に発した。この激怒の裏には、守安に与えた直孝の言動に対する嫉妬心が含まれてあることを主水は、その怒りの強さのゆえに認知できなかった。わかったところで、主水の直孝、守安に対する怒りは変わることはなかったであろう。

 十二月四日早朝の真田丸攻撃において、結果的に主水は木俣右京に遅れをとった。負傷した右京が家士に背負われて戻ってきた時、直孝は「手負いぶり、さても見事なり」と格外の褒めことばを与えたのを耳にした時、主水にはその情景がありありと脳裡にうかんだ筈である。こうしてはいられない。このままでは俺のサムライとしての一分が立たぬ。俺は彦根の先手衆三十七騎を寄騎として預かる士大将「川手主水」なのだ。

 四日の夜、主水は思い切って直孝の幕営をたずね直訴した。主水の訴えの要点は唯一つ、このままでは面目が立たぬ。それがし一人でも明朝一番に真田丸に仕掛け、討死仕る!——というものである。
直孝は家康本営から派遣されてきていた近藤石見に相談した。近藤を呼んだのは直孝の深意である。当時直孝は兄井伊直継の陣代として父直政以来のもののふ数千人を預かっている。その身分はあく迄兄直継の代理であった。彦根の城主ではない。
 身分は一万五千石(旗本知行一万石、兄直継合力五千石)の旗本にすぎぬ。陣中の人事で何か問題が発生したときは、いわば軍目付とでもいうべき近藤石見に諮っておいた方がいい。——石見の助言はただ一言であった。

「掃部殿、そなた様の存念次第に行われて然るべしと存ずる——」

 近藤石見秀用はもと井伊谷三人衆の一人で先代石見康用は直孝の父直政に附属された時分、しばしば互いの剛強な性格が災いして喧嘩した人である。当代の石見も父に劣らぬ剛っ張りの剛傑である。
 石見秀用に助言を得た直孝は、主水を呼びよせてこう云った。

 先手において自儘(じまま)な行動は厳に慎むべし。もし事に於てわが命令に背くならば、
「向う3年間、その方の知行を差し押さえる」。

 これは何という報復的処置か。主水の知行は四千石だが、その三年分を召し上げるというのだ。これはひどい。これでは附属の寄騎達との親睦な交流はおろか「川手主水」の生活もならなくなる。つまり飢えて死ね——ということだ。

 この直孝の指令は惨酷である。非情を通り越している。畢竟するところ直孝は死ねと主水に言っているに他ならない。俺のいうことは絶対的命令である。汝は俺に使われている身分である。身の程を知れ!——ということだ。その上直孝はこういった。令に背き自儘に先駆して討死した者の跡は立てぬ。断絶じゃ——。この旨確と申し付くる。

 主水は唯暗然とした表情で直孝の幕営を出た。鎧の鉄の重さが、厚い具足下着を貫いて身に滲みた。この時の主水の心中は思いはかるに余りある。最早これまでである。主水はおのが命運の定まったことを、この時思い知らされたのだ。あとは——。
 そうだ、あとは死ぬしかない。法度に反いて先駆すれば腹を切るどころか右京のように名士となって天下に喧伝される。俺はのうのうと右京のようには生きることはせぬ。名誉も要らぬ、ただ見事に死に切ってやる。
主水は一途にこう決めた。決めてしまうと、さまざまな思いも収まっていった。

「こんどこそ、あの真田の出丸にとびこんで・・・」
死んでやるのだと決心し、陣中身辺のいろいろを整理していたら、突然両軍講和——休戦となってしまった。何とツイていないことか。こんなことではおれの生きようがない。主水の思いはまことに深刻であった。


 元和元年二月三日、井伊勢は直孝に率いられ、彦根へ凱旋した。この時彦根城には兄直勝の母や姉(松平忠吉妻・花)がいたので直孝は遠慮して、城西山崎の郭に入った(ここは木俣守安の先代土佐守勝が預かり住んでいたので後世土佐郭と称した。当時の住人は木俣守安である。後代これが吉例となって、新藩主国入りの節は必ず木俣郭に入るのを常とした)。

(続)


直孝彦根凱旋の日付を修正しました。
2022年9月8日

直孝知行を修正しました。
2022年10月5日

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