前後截斷録第63回
主水のうしろ姿を追って
(六)真田丸攻撃
冒頭ながら念のためいっておきたい。只今大坂城郭の一部に築かれた「真田丸」の呼称は史家および歴史愛好家の間に定着しているが、当時寄手井伊勢の中にあっては「真田丸」と明確にいっていない。ふつうに「三の丸の出郭」といっていたらしい。しかし本稿中にあっては近代言い慣らわされた、「真田丸」という講談的ではあるがこの表記を用いてはなしを進めてゆく。

真田丸旧趾近辺
戦後真田丸の趾は跡形もなく破却された。現在そのあとといわれている場所は意外に広範囲で、正確な場所はわからないという方が正確である。
さて、木俣右京守安である。
真田丸からの絶え間ない木俣らへの銃撃は収まることがない。
その中で右京守安は「あの土居にとりつく!」と叫んで空濠の柵を乗りこえようとするが、もとより信繁発案でしつらえた防柵だから容易に破れない。藩記録によると従士の野田六兵衛が大脇差を揮って柵を結んでいる縄をたち切り、足で柵の一部を蹴り破って右京を中へ招き入れた。これをこえても、更に次の防柵がある。上からの銃撃は一段と厳しくなってくる。ついに太股に弾丸が当って右京は転倒した。野田や関口といった木俣譜代の家来が右京を助けおこす。この時旗本の本隊から派遣された三浦十左衛門が真田丸からの引き上げを伝令してきたが、誰も諾こうとしない。右京守安はその頃真田丸の土居下にとりついていた。とりついたけれど、そこから一歩も動くことができない。矢玉は真上から休むことなくふってくる。あとでわかったことだが、このとき木俣右京守安の具足、指物には十一箇所もの弾痕があった。守安はこのときの銃創がもとで生涯”ちんば”(当時のことば——跛行)となって片足をひきずって歩いたといわれる。
井伊勢の主将直孝からは、濠から引きあげよとの命令が出ているが、伝令が濠際へ来て大声で叫んでも濠下へ飛び込んだ井伊の兵たちは誰も諾こうとはせぬ。銃声や叫喚で声が十分に届かなかったこともあるが、もとより引き上げよといわれて我先きにあがってくるものはいない。この機会を幸いと我先にこの修羅場から引き上げたら、アレあの臆病者が・・・と後指をさされること必定である。そうなると、無事戦後を迎えても、奴は命惜しさに鼠より早う逃げおったワ・・・と嗤い者になって男が立たぬことになる。
「赤鬼軍団井伊」の内にあって、ひとたび臆病者の烙印を捺されたら、もうサムライの世界では通用しなくなるのだ。こういう当時の侍社会の戦場不文律を長々と書いているのは、後の本論ともいうべき川手主水の行動を理解する上で重要だからである。
つまるところ、木俣右京守安が抜け駆けをやったことは、重大な軍律違反であった。大阪方真田軍は少しも損害を蒙ってはいない。仮りに真田丸の土居にとりついたところで上から突き落とされるだけである。
一人や二人、真田丸にのりこんだとしても敵の格好の餌食である。なのになぜ右京はこんな暴走に似た自殺行為をしたのか。右京は大罪を犯した。切腹は遁れられない。覚悟の上である。その覚悟はどこからきたのか。軍令を守って凝乎(じっ)としていればいいのに突出、損害を出した。事実戦死者が出ているのである。責任は切腹という行為で右京自身が責めをとることだ。ここまでは前夜直孝と諜し合わせずみである。
結果この軍令違反は寄手はもとより大坂方へも知れ渡った。右京にとって最大の売名行為となった。もう右京は死ぬばかりである。木俣右京の男振りは天下に示したのだから。もうこれで十分である。人間、どのみち一度は死ぬのだから。
ところが事態は意外な方に展開することになる。総大将の徳川家康はこの木俣右京の抜け駆け、真田丸空濠飛込みの一件を評価し、褒めあげたのだ。
誰だって命は惜しい。長生きしたいのが本能である。その大切な命を捨てて寄手としての決死の武功をあげたのはまこと勇士の名に値する。木俣右京なる奴はまこと勇士である——というわけである。家康のこの言動には井伊直孝はもちろん、この行為に激怒していた徳川秀忠や寄手の諸将一同を十二分に驚かせるに足るものであった。「——え!抜け駆けありかよ」「なら吾等もしたによ」
もとより、そのような声を出す者はイザという場合何もできないのだが、この一挙で「井伊家侍大将木俣右京守安」の名は天下第一の勇士としてその声明が轟きわたることになった。
このあと、ともかく右京達は飛び込んだ真田丸空濠からの生還を果たした。
もはや右京は天下第一のおとことなった。右京にしてみれば弾丸創(たまきず)でたとえ彼の人生が両足不具になったところで、それがどうした——というぐらいの気愾である。大事なのは男としての「木俣右京」の武名だ。
空濠から上がったとき、同じ先手鈴木主馬家の侍たちが右京の姿をみて声をかけた。「我等もいかい苦労を仕った・・・」「まこときびしき場でござったワ」
そして更にこういった。
「われらも濠下へ飛びこみ申した」「御旗本からの命によってやむなく土居下から引きあげ申したが・・・」
この旨右京殿証人になって、殿様へお口添えいただきたい——
右京は聞くなり
「其方等は何をぬかしおる。主馬(鈴木)が馬印はたしかに濠の上にみたような気がするが、そこから少しも動いてはおらなんだわ。たわごとを申すな!」
因みに右京の馬印は養父譲りの「鳥毛の棒」であり鈴木主馬は「銀の半月」である。右京がいったのはその鈴木の銀の半月の馬印だけが濠の上からみえていただけだと断言したのである。鈴木の隊士たちは沈黙した。

木俣守安所用「鳥毛の棒馬印」中核部分。現在棒に残されている鳥の毛は、先代守勝所用の時代、
つまり慶長以前のものである。守安はこれを譲り受けて、大坂冬の陣で勇戦した。
(井伊美術館蔵)
掲載史料の所蔵先は特に断り書きしない限り筆者所蔵に係り、
本稿は著作権法によって保護されています。
(六)真田丸攻撃
冒頭ながら念のためいっておきたい。只今大坂城郭の一部に築かれた「真田丸」の呼称は史家および歴史愛好家の間に定着しているが、当時寄手井伊勢の中にあっては「真田丸」と明確にいっていない。ふつうに「三の丸の出郭」といっていたらしい。しかし本稿中にあっては近代言い慣らわされた、「真田丸」という講談的ではあるがこの表記を用いてはなしを進めてゆく。

真田丸旧趾近辺
戦後真田丸の趾は跡形もなく破却された。現在そのあとといわれている場所は意外に広範囲で、正確な場所はわからないという方が正確である。
さて、木俣右京守安である。
真田丸からの絶え間ない木俣らへの銃撃は収まることがない。
その中で右京守安は「あの土居にとりつく!」と叫んで空濠の柵を乗りこえようとするが、もとより信繁発案でしつらえた防柵だから容易に破れない。藩記録によると従士の野田六兵衛が大脇差を揮って柵を結んでいる縄をたち切り、足で柵の一部を蹴り破って右京を中へ招き入れた。これをこえても、更に次の防柵がある。上からの銃撃は一段と厳しくなってくる。ついに太股に弾丸が当って右京は転倒した。野田や関口といった木俣譜代の家来が右京を助けおこす。この時旗本の本隊から派遣された三浦十左衛門が真田丸からの引き上げを伝令してきたが、誰も諾こうとしない。右京守安はその頃真田丸の土居下にとりついていた。とりついたけれど、そこから一歩も動くことができない。矢玉は真上から休むことなくふってくる。あとでわかったことだが、このとき木俣右京守安の具足、指物には十一箇所もの弾痕があった。守安はこのときの銃創がもとで生涯”ちんば”(当時のことば——跛行)となって片足をひきずって歩いたといわれる。
井伊勢の主将直孝からは、濠から引きあげよとの命令が出ているが、伝令が濠際へ来て大声で叫んでも濠下へ飛び込んだ井伊の兵たちは誰も諾こうとはせぬ。銃声や叫喚で声が十分に届かなかったこともあるが、もとより引き上げよといわれて我先きにあがってくるものはいない。この機会を幸いと我先にこの修羅場から引き上げたら、アレあの臆病者が・・・と後指をさされること必定である。そうなると、無事戦後を迎えても、奴は命惜しさに鼠より早う逃げおったワ・・・と嗤い者になって男が立たぬことになる。
「赤鬼軍団井伊」の内にあって、ひとたび臆病者の烙印を捺されたら、もうサムライの世界では通用しなくなるのだ。こういう当時の侍社会の戦場不文律を長々と書いているのは、後の本論ともいうべき川手主水の行動を理解する上で重要だからである。
つまるところ、木俣右京守安が抜け駆けをやったことは、重大な軍律違反であった。大阪方真田軍は少しも損害を蒙ってはいない。仮りに真田丸の土居にとりついたところで上から突き落とされるだけである。
一人や二人、真田丸にのりこんだとしても敵の格好の餌食である。なのになぜ右京はこんな暴走に似た自殺行為をしたのか。右京は大罪を犯した。切腹は遁れられない。覚悟の上である。その覚悟はどこからきたのか。軍令を守って凝乎(じっ)としていればいいのに突出、損害を出した。事実戦死者が出ているのである。責任は切腹という行為で右京自身が責めをとることだ。ここまでは前夜直孝と諜し合わせずみである。
結果この軍令違反は寄手はもとより大坂方へも知れ渡った。右京にとって最大の売名行為となった。もう右京は死ぬばかりである。木俣右京の男振りは天下に示したのだから。もうこれで十分である。人間、どのみち一度は死ぬのだから。
ところが事態は意外な方に展開することになる。総大将の徳川家康はこの木俣右京の抜け駆け、真田丸空濠飛込みの一件を評価し、褒めあげたのだ。
誰だって命は惜しい。長生きしたいのが本能である。その大切な命を捨てて寄手としての決死の武功をあげたのはまこと勇士の名に値する。木俣右京なる奴はまこと勇士である——というわけである。家康のこの言動には井伊直孝はもちろん、この行為に激怒していた徳川秀忠や寄手の諸将一同を十二分に驚かせるに足るものであった。「——え!抜け駆けありかよ」「なら吾等もしたによ」
もとより、そのような声を出す者はイザという場合何もできないのだが、この一挙で「井伊家侍大将木俣右京守安」の名は天下第一の勇士としてその声明が轟きわたることになった。
このあと、ともかく右京達は飛び込んだ真田丸空濠からの生還を果たした。
もはや右京は天下第一のおとことなった。右京にしてみれば弾丸創(たまきず)でたとえ彼の人生が両足不具になったところで、それがどうした——というぐらいの気愾である。大事なのは男としての「木俣右京」の武名だ。
空濠から上がったとき、同じ先手鈴木主馬家の侍たちが右京の姿をみて声をかけた。「我等もいかい苦労を仕った・・・」「まこときびしき場でござったワ」
そして更にこういった。
「われらも濠下へ飛びこみ申した」「御旗本からの命によってやむなく土居下から引きあげ申したが・・・」
この旨右京殿証人になって、殿様へお口添えいただきたい——
右京は聞くなり
「其方等は何をぬかしおる。主馬(鈴木)が馬印はたしかに濠の上にみたような気がするが、そこから少しも動いてはおらなんだわ。たわごとを申すな!」
因みに右京の馬印は養父譲りの「鳥毛の棒」であり鈴木主馬は「銀の半月」である。右京がいったのはその鈴木の銀の半月の馬印だけが濠の上からみえていただけだと断言したのである。鈴木の隊士たちは沈黙した。

木俣守安所用「鳥毛の棒馬印」中核部分。現在棒に残されている鳥の毛は、先代守勝所用の時代、
つまり慶長以前のものである。守安はこれを譲り受けて、大坂冬の陣で勇戦した。
(井伊美術館蔵)
掲載史料の所蔵先は特に断り書きしない限り筆者所蔵に係り、
本稿は著作権法によって保護されています。
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