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前後截斷録 第60回

主水のうしろ姿を追って 2

(四)大坂両陣前後の井伊家中の状況

 東の徳川、右の豊臣——。関ヶ原の大戦から距つことおよそ十五年を経て、天下の風雲は再び急をつげはじめた。都近く、佐和山(彦根)に居を占めた井伊家にも逸早く大坂豊臣氏の状況は報知されていた。戦国以来千軍を往来した古武士たちはその多くが世を去り、戦いを知らない若きもののふたちは徒らに乱世に憧れ腕を撫する日々であったが、漸くその実際を知らしめる戦雲は徐々に殺気を孕んで彼らの目睫に迫り来たりつつあった。

 ときに井伊家の統領は井伊直継である。天下突懸(つっかかり)第一の将、徳川四天王の筆頭とうたわれた井伊直政の嫡男で、彦根第二代藩主である。ところがこの直継は性格的に父直政の絵に描いたような勇猛果敢なところを承けついでいなかった。家士の誰もが、怒ったところをみたことがないという。性格温順であった。いわゆる「君子」といえば褒め言葉になるが、それは後代江戸泰平の美言で、この乱世には適用しなかった。治国の主にはむいていなかった。

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井伊直継所用 朱具足(部分)

 つまり井伊家の統領であるはずだが、実正はかの猛将直政の嫡男というだけで、単なる藩国の上段にすえられた飾りものに近い存在であった。ここで政治の実権を握っていたのは鈴木石見、同主馬、川手主水(景倫)、中野助大夫、椋原主馬、西郷勘兵衛らであるが、鈴木石見は慶長10年、家中で騒動事件を起こした主犯として井伊家を追放され、石見を除く上記の面々が藩政を主導したが川手主水はその筆頭者の地位にあった。
 彼等の上に、家康の命によって井伊家に附属されていた木俣土佐(守勝)が目付として家中に睨みを利かせていたが、この土佐も慶長15年に死去し、今は養子の木俣守安が右京と称して養父の欠を補っている。

 この状況で特に説明を要するのは、主水と木俣右京(守安)の立場、状況である。守安は小田原の北条氏照の落胤で、土佐守勝の養嗣。一方の主水は井伊直政の姉婿先代主水の養子として川手家に入った。二人とも養子である。年齢は木俣の方が三歳年上、互いに若さを誇って競争意識に燃えていた。

 そして大坂冬の陣勃発である。
井伊勢は幸い真田丸攻めを担当することになった。
相備えは越前松平忠直と前田利常の部隊である。
共に大藩大軍の両勢が同じ攻め手となって、井伊隊も奮発して攻め口に寄せつけた。
これを当時の用語で仕寄(しより)をつけるという。


(続)


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前後截斷録 第59回

真贋の鑑定と評価
 甲冑武具の審定


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井伊直政初陣着用と伝えられる朱具足
 
こちらの続きです。

ヨロイカブト、それに係る武具類専門の美術館をしていると、外部からしばしば鑑定依頼をされることがある。単純な真贋の区別は実際には現物をみなくてもできる。現代物の古作に似せた甲冑は、たとえば3〜40m離れたところからみても新古の区別はたやすい。一寸見(ちょっとみ)で十分である。一ヶ月あたりおよそヨロイは50領(甲冑は一揃いの単位を領であらわす)、カブトや面具類は100点以上鑑る。毎月の研究会だけでもその数は夥しいものになる。それらを一瞬のうちに、つまりワンショットの視線で脳裡に灼きつけて、真贋は勿論、新古上下を見分ける。もちろん現実的な相場も合わせてである。
 以上の鑑定を多寡は多少違っても、五十年以上続けてきたから、ことヨロイカブトに関しての実戦的知識や経験は「我ならで」の自信がある。

 およそ出来のよい上級の古甲冑は、それを構成する基体である鉄や革がよく吟味されているし、塗料の漆や金銀箔が上質であるから、すぐにわかる。これは一種の匂いといっていい、香りである。
 結構な伝来を伴っている見てくれだけのヨロイカブトにはこの香りがない。時代もたいてい、よくて江戸中期、ひどいものになると明治の貿易物如きに造られた偽似(ぎじ)甲冑がある。

 現代になって甲冑武具を鑑定する機関がいろいろできているが、それら全てが必ずしも正しい知識をもって鑑定されているとは限らない。知見不足!というのが第一の原因であろう。特に現代作の総面類を古作とみなして認定書を出したりしていることも耳にしたし、某氏からその写真を呈示されたこともある。
「総面」というのはヨロイを表すとき面部総体を護る防具の名称(正称ではない)である。最も簡単に真贋識別のしやすい甲冑部品であるが、偽物も多い。特に海外のコレクターに向けて、高価に売買されるからである。

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鉄総面包(朝倉義景遺品)
現存最古作総面の代表遺品 ー『ふくいゆかりの名宝たち 里帰り文化財展』(平成27年10月)より (調査寄託資料写真)

※詳細は古武具類名品聚楽 面具の部

 その他古作甲冑に新しい部品が混入していたりした場合、その判別が出来ていないこともある。伝聞であるが、事実とすれば頼りない。古作の具足の部品の中に新作物を混入させて一領に仕立てたものは昔からままあり、近頃はそれがかなり盛行しているようである。中でもとある鑑定機関は、左様のものにも合格の証書を発行している由を聞いた。真否は知らない。
 全体が古作であれば、それが合わせ物であっても一概に疎外してはいけないが、中に新作のたとえば面具や籠手などが混入させられたものが「全体本作物」として査定合格させるようなことがあっては後世のためにもいけないだろう。

 もちろん、各審査機関に属しこれらを審査する人々について、甲冑武具に関して何も知らない人には「専門家」と思われるかもしれないが、大体は左様ではないこともある。係る人の多くは、もともとヨロイカブトが好きで、その趣味を同じくして集まった人々のグループの中から幹部となり、査定人となった人々が多い。いわば同好会同人中の、主たる人々である。色々機関はあれど、論文・研究紀要集が定期発行されている訳でもなさそうだから、それゆえに審査鑑定そのものに厳密な学術的評価を求め責任を追及するのは酷なことであろう。

 しかしこういう状況であっても、鑑定証を需める人々があるのは、その書類がついているととりわけ外国人さんたちが安心してその品物を買うかららしい。日本の甲冑に興味のあるかれらのほとんどは、外国語で読める研究書の少なさなどもあって詳しいことまではなかなか御存知ないから、ちょっと怪しい品物でも日本国内で発行された証書がついていたら安心の拠り所になるらしい。第一、販売者としての真正保証責任の回避策にもなるという。
拈華微笑——。


(2022.06.27) 続
(2022.06.29 改)

前後截斷録 第58回


主水の後姿を追って
 (速報版)


佐和山古絵図 1
佐和山城古図(搦手側)
彦根築城当初、井伊家の諸士は旧佐和山城焼け残りの建物を臨時の宿舎にした。


佐和山
佐和山本丸を大手口より望む


(一)私と川手主水

 「川手主水」というもののふの名を識ったのは二十台前半の頃であったと思う。ざっと六十年前である。はじめはなにか格好のいい名前だな、と思った程度で、余分の知識といえば、井伊家の彦根統治初期のサムライ——といったほどのものであった。
 その主水が、実は大坂の陣で無念の死をとげたことを知ったのは大分あとで、彦根の郊外にある主水の塚を偶然に発見した頃と相前後している。その主水塚との遭遇は、あとから考えると単なる偶然ではなく、今となっては運命的な出会いであったような気がする。あの日は寒かった。塚を取り巻いている叢林のなかに咲いていた藪椿の紅の色が、今も鮮やかに蘇ってくる。

 その後の長い私の生活のうちに、主水は忘れられることなく蹤いて来た。主水について何か史的考究をしてきたわけではない。何も大した意識もしていないのにフッと私の意識の中に主水はその居を占めていたのである。潜在意識にあったのはおそらく「主水の戦死」であったろう。それをいつか詳かにしたいという願いがどこかにあったから、主水はあるいはその希望をかなえるように私の背後に憑いていたのかもしれない。

 それを私があきらかにすることは、いってみれば、主水の本懐ではないだろうか。同じことは他でも言ったような気がする。よけいな迷信ごとはいわない。しかし、そんなことを考えたり、考えなかったりの匆忙の日々のうちに歳月は過ぎた。
某日「疾く、急げ!」というような主水の叱声を聞いた。たしかにその声は私の背中から聞こえた。私はこれまで、主水について多少書いたり、発表してきた(前後截斷録「川手主水」項)。その他にも近年はHP上にいろいろ書いてきた。そのおおむねは大坂の陣に係るものであるが、実は重要な史書による主水の行動はまだ書いていない。
先日私蔵の史料のなかに、ほんとに貴重な主水の生きた真の姿が伺われるものを複数発見した。それらの史料によって生きた主水の後ろ姿を追ってみたい。

 現在から過去へ遡上って、どんどん遠去かってゆく人物の後姿に追いつくことはむずかしいが、主水に係ってのことは、その解明のための自分の一挙一動そのものが大袈裟に言えば生きがいに思われる。


(二)主水の実名


主水刀疵具足
錆朱塗碁石頭胴具足 伝・川手主水大坂の陣所用

 川手主水の実名は「良行」とされている。その拠り所はおそらく『井伊年譜』(功刀君章編)であり、更にそのもとは『河手系譜』であろう(あるいは全くその逆かもしれない)。『河手系譜』は分家川手藤兵衛家の『書継ぎ系譜』であり、この中に本家たる初期主水家の記録がある。数少ない彦根川手氏の資料としては貴重であるが、個人の私的編纂に係るその家の系譜というものは、史実的に重要な部分もある反面、あきらかな誤謬や誇張があって、存分に信用することは危険である。
 とくに一旦家名が亡滅した士族の時代記録は記述に対する正確な検討と批判を要する。ところがそれは実は最もむつかしいのである。
ところで、前記したごとく「主水の生きた姿」を知る史料とは何か。それは『直孝様御直書并御請萬留』と『大坂御陣・・・面々指上候書付之写』の二書である。いずれも単一の記録本で一般の流布史料ではない。その中から川手主水のことがらを明確に認識したのはごく最近のことである。

 主水の実名が判明したのはその前書の方で、その文書については本稿(三)で詳述するが、川手主水の実名は「良行」ではない。従来の彦根史書関係では「川手主水良行」とされているがこれは、その通り名を記している。『井伊年譜』自身が「判然しない」と断っている。これが実は正しかった。主水の実名は景倫(おそらくかげともといっていたであろう)である。川手主水景倫が、かれの正しい形姿をあらわす名前であったのである。そういえば『河手系譜』上の祖父は「景隆」といっている。何となく然るべき実名と首肯されるが、そうすると先代主水である父の実名「良則」も怪しい。本当は通字の「景」を用いた「景○」であったと考えられるが今は不明である。ともかく本稿の主人公川手主水の実名をわたしが瞭らかにできたことが、何よりのよろこびである。


(三)主水実名判明の典拠

 わたしは大分むかしになるが『井伊軍志』というものを著した。これは井伊直政の軍政面に力点をあてた井伊直政の一代記であるが、この中に、直政没後に井伊家中を真っ二つに割った大騒動について、「佐和山騒動」として一項を設け詳述した。この騒擾事件を一言でいってしまえば、直政のあとを承けた二代目井伊直継(のち直勝)の統治能力の不足から、年寄中の権力者鈴木石見が井伊家中をわが物にしたかのごとき権力を振るいはじめた。単純な正義論でいえば、いわゆる悪党である。
 これに激怒した反鈴木派(これは時代劇風にいうとお為派、正義派に分類される)が立ち上がり、鈴木の不正を弾劾、その排除のため幕府に訴え出た。この時代の用語で「目安を差上げ奉る」というが、このときの訴状の筆頭人が他ならぬ川手主水であり、実名はその訴状連判の記録によって判明した。時期は慶長十年六月である。

河手主水書状(川手)
川手主水の地位を示す井伊家重臣連署状記録(慶長十年六月二日付)

 結局この件は家康の直裁により鈴木石見追放処分で落着ということになったが、この時の幕府との往復書簡中の連判署名から主水の実名が判明したのである。因みに主水とともに連判した井伊家重臣達の名前は、下記の人々であった。
椋原対馬、中野介大夫、西郷勘兵衛、松下源太郎

 ここで私が言いたかったことは、主水景倫は若くして彦根藩政の筆頭者に立っていたということである。主水は慶長六年養父である先代主水(実名良則と『井伊年譜』や『河手系譜』ではいっているが、これは現時点において真実味がない)の死去において家督をついでいるが、この時年歯わずかに十四歳。鋭敏であったことが知れる。そして鈴木石見排斥一件で主班となった時は十八歳。既にこの時、主水は井伊家中第一の地位を誇っていた。

(川手は直系が断絶するが、その他の子孫は幕末維新まで連綿する。)

続く

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前後截斷録 第57回


安土城へ 2


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 わたしのもっともお気に入りのところは、天守閣の石組の北側になるのだろうか。ふだん観光客がほとんど訪れることのない、いわば裏側の石段周辺である。むかしは容易に行けたところだが、今はどうだろうか。今回も帰ってからこんなことを書きながら、たしかめなかったことに気がついた。

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安土城 石垣に利用された古石仏?


 むかし、この場所には焼け瓦の破片がたくさん放置されてあった。ほとんどコークス状になっているものが多かった。焼亡時の火熱の凄さが偲ばれたが、ほんとにそういえばあの場所はどうなっているのか。
安土城の天守閣跡は単に城郭遺構としてだけの意味にとどまらず、安土桃山時代を第一に代表する象徴的古文化財といってよい。

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安土城カエル。左下あたりに注目。

 井伊氏の彦根築城にも安土城趾から大分の石垣を移送した記録があるが、それにしても城垣の中核部分が遺されたことは有難い。これは彦根に入封した井伊氏が配慮したことではない。そこには歴史の偶然という天の配慮が働いたのだ、とわたしは考える。

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摠見寺あと。山頂ながらよく手入れされいることに感心する。

 わざわざそこへ行きながら、上記のようなことがらをすっぽかして忘れ、摠見寺あとを経由、二王門から長い石段を散策して帰ってきた、昔ことばでいえば、わたしとしてはまこと、ムザとした刻を過してきたといわねばならない。その節は「これから佐和山へ」という先行観念があったから、——という言い訳は自分でも容認できない。

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二王門を下から。


 陽は大分西に傾きはじめている。帰途の高速道路の混雑の懸念も、ほんの少し脳裡に警報を鳴らした。

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降り立ったところに群生していた。夕陽に照り映えている。


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(本稿終り)