前後截斷録 第55回
佐和山残照 二

城内から大手口をのぞむ(昭和40年代筆者撮影)
先日、子供らをつれ久しぶりに安土城址に行った。安土城址のことは別項を設けるとして、このあと我々は彦根へまわった。 彦根には一応家があるが、そこへは寄らず佐和山の城址、それも大手口址を訪れた。理由は別にない。
既に晩秋の陽も傾いて京への帰心そぞろであったが、なぜか、この、只今の時季、時刻に城址を正面からみたくなったのである。
ふつうこの時間になると、名神高速道路の帰途は混雑する。彦根インターを午後4時迄に入らないと草津辺りで渋滞にまきこまれるのである。しかし、こたびは、そのことを自身了承する気になった。考えれば前記の如く、私は大手口方面は殆ど無縁であったし、夕陽と佐和山城址の対比を考えると、それを観るにもっとも相応しい季節と時間は、晩秋の日没ちかくを措いて他にないと思われたからである。
この想いは的中した。車から大手口におり立ったとき、「西山」(せいざん)ともいうべき佐和山城本丸はまさに残照のうちにあった。考えれば傘寿に満たんとするこの年令にして、はじめてこの夕景に接したのである。
五層の天守を構えたという佐和山城本丸は、濃紺の山容をしばらく夕照の中に残していたが、やがてみるみるその影を迫りくる闇の中に没していった。

茫々と立ち枯れている薄の一枝を抜いて背後をふり返ると、国道8号線がそこにある。轟音をひびかせ、トラックのむれが東西にすれ違って隙間もない。ヘッドライトの電影が、獄舎跡から三の丸跡の雑木林をフラッシュのように照らし浮かして行き過ぎる。
自分の立っているところは大手門左脇の牢獄跡にちかい。夕方には湿けた地の上に赤茶けた鉄滓が見えていたが・・・。早くもいまは、全ては闇の中におちようとしている。

日没間近の佐和山城本丸遠望
戦斗防禦の要害ではなく、今や交通の要衝となったこの場所、名神彦根インターからおよそ10数分のこの地は、365日眠らぬくるまの繁華の地となった。戦国の三雄、信長、秀吉、家康・・・そして彦根開創の元勲となった井伊直政たちが、この情景をみたら何というであろうか。

佐和山古絵図 搦手(彦根側)から(筆者蔵)

国道八号、佐和山トンネルを西へ抜けたところ。荒神山遠望

城内から大手口をのぞむ(昭和40年代筆者撮影)
先日、子供らをつれ久しぶりに安土城址に行った。安土城址のことは別項を設けるとして、このあと我々は彦根へまわった。 彦根には一応家があるが、そこへは寄らず佐和山の城址、それも大手口址を訪れた。理由は別にない。
既に晩秋の陽も傾いて京への帰心そぞろであったが、なぜか、この、只今の時季、時刻に城址を正面からみたくなったのである。
ふつうこの時間になると、名神高速道路の帰途は混雑する。彦根インターを午後4時迄に入らないと草津辺りで渋滞にまきこまれるのである。しかし、こたびは、そのことを自身了承する気になった。考えれば前記の如く、私は大手口方面は殆ど無縁であったし、夕陽と佐和山城址の対比を考えると、それを観るにもっとも相応しい季節と時間は、晩秋の日没ちかくを措いて他にないと思われたからである。
この想いは的中した。車から大手口におり立ったとき、「西山」(せいざん)ともいうべき佐和山城本丸はまさに残照のうちにあった。考えれば傘寿に満たんとするこの年令にして、はじめてこの夕景に接したのである。
五層の天守を構えたという佐和山城本丸は、濃紺の山容をしばらく夕照の中に残していたが、やがてみるみるその影を迫りくる闇の中に没していった。

茫々と立ち枯れている薄の一枝を抜いて背後をふり返ると、国道8号線がそこにある。轟音をひびかせ、トラックのむれが東西にすれ違って隙間もない。ヘッドライトの電影が、獄舎跡から三の丸跡の雑木林をフラッシュのように照らし浮かして行き過ぎる。
自分の立っているところは大手門左脇の牢獄跡にちかい。夕方には湿けた地の上に赤茶けた鉄滓が見えていたが・・・。早くもいまは、全ては闇の中におちようとしている。

日没間近の佐和山城本丸遠望
戦斗防禦の要害ではなく、今や交通の要衝となったこの場所、名神彦根インターからおよそ10数分のこの地は、365日眠らぬくるまの繁華の地となった。戦国の三雄、信長、秀吉、家康・・・そして彦根開創の元勲となった井伊直政たちが、この情景をみたら何というであろうか。

佐和山古絵図 搦手(彦根側)から(筆者蔵)

国道八号、佐和山トンネルを西へ抜けたところ。荒神山遠望
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