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前後截斷録 第54回


佐和山残照


佐和山
大手口から本丸の残照を見る


(一)われらがいくさ場


 彦根の佐和山城跡とのつき合いは古い。小学2〜3年の頃から、この「佐和山」という広大な城域は私の庭のようなものであった。その頃のわれらの遊びの代表的な物、そう、チャンバラごっこ。これを思いきやるところが、この佐和山城域であった。
 われわれは鎮守の杜である千代神社という山麓の神社裏手から、佐和山の尾根を南に連る小峰の谷あいに集って、ここで敵味方に分かれる分別をする。得物はその辺で拾ったり、伐り取った木々の枝である。これが太刀となり脇差となる。
それぞれ得意満面でこの木刀をベルトにたばさみ、年長の二人を中心に円座を組む。二人はグループを二つに分ける。攻め手と守り手、つまり寄手と守城側である。そこから城跡名としては太鼓丸の跡地を目指す。そこは切り通しの谷を挟んで、石田三成時代に太鼓丸という曲輪のあったところで、一方はこの曲輪跡に陣取り、片方はこれを切り通し道から攻める。
切り通しというのは江戸前期、彦根藩第三代藩主・井伊直孝が城下往還の便を図って、彦根の町から東方鳥居本方面へ、中山道原町を迂回せず、直接東へぬけられる道を、城下古沢町から太鼓丸の谷道を切り通して作らせた山間の道路の名称だ。三成時代この辺りは佐和山城防備の重要拠点であった。
 ガキ達の遊びとしては結構ハードなものであった。お互いに木で造った刀で、本気で叩き合うのだから結構ケガをする。それを指揮官の先輩たちがみると「——なんや、そんなケガ位、気にすんな。やった奴をやってしまえ。血止めるんやったらポケットのゴミをなすりつけとけや。すぐ止まらァ」


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 ま、こんな調子で我々は佐和山城趾を格好の遊び場としていた。今時分の母御さんたちが聞いたら仰天するような危ない立廻りをしたものである。勿論彦根城も、今とはちがって整備された博物館など気配もなく、入場無料のフリーパス。ここでもたしかによく遊んだが、よりスケール大きく暴れられるのは断然佐和山の城跡の方であった。ここはまことにわれらが愛すべき「いくさ場」であった。
どうやら話の前置きが、本題より長くなってしまったが、我々佐和山より西側に生活する彦根側の子供たちは、佐和山ではよく遊んだけれど、それは城の防衛上の名称でいえば常に搦手側であって、大手側とは全くといっていい位、縁がなかった。


(二)佐和山隧道


彦根の町中(まちなか)に住んでいるわれわれ少年たちは、佐和山の山一つ超えた東側の鳥居本に、城の開口部をもっている大手方面にはとんと縁がなかったことは前項で書いた。
現在国道8号線になっている道を東進し、古い隧道(トンネル)をぬけ、鳥居本側へ出る。このトンネル、いつ作られたか知らないが、道の狭い、壁がいつもじくじく濡れている不気味なトンネルで、人と車が併走するのはかなり危険であった。勿論、佐和山石田氏の怨霊が出るとか、何やらが出るとか、古城趾におきまりの妖怪伝説もお揃いで、現今でいえば立派な心霊スポットに選出されるところである。そんなところであるから、人身事故はほとんど毎年のことで、私の通っていた彦根東高等高校で人気のあった先生も、私の卒業後ここで事故死されたことも聞いた。こんなところで何台もの車に轢かれると、判明したときの状況が惨憺たることはいうまでもない。実にいやなトンネルであったが、幼時はこの近くまで遊んだり叔母らと共に薪木を拾いにいったりした。


(三)迎えの殿道


 上記したトンネルは「佐和山隧道」とかいったと思うが、このトンネルを東へ抜けると道が新旧二つに分かれる。右側が古道で、左側は国道のために新しく造成されたいわゆる新道であった。右側の古道は、江戸時代以来の道で、その道をまっすぐ東へ行くと、中山道に合流する。このトンネルの殆ど真上が、佐和山城郭の要衛太鼓丸の辺りになり、その谷あいの道が前述の江戸前期井伊直孝によって造成された「切通道」となっていた。

 井伊家歴代の藩主が、江戸から帰国の暇(いとま)を賜って、中山道から鳥居本を経て、この道を超えると「懐かしの彦根城」が姿を現す。在城留守の侍たちは、殿様帰国の佐和山越えの行列を、本丸着見(月見)櫓で看取すると、到着時刻を計って群臣たちが一同「いろは松」で待機、馬上またはお駕籠の殿様を迎えるのである。藩公は主だった家老、中老たちにいちいち「大儀」「苦労」「よし」などという定例句の声をかけ城内に入る。よくTV時代劇などで、殿様や大将が「ゴクロウ!」などというセリフを吐くが、「御」をつけるのはまちがいである。殿様は家士に「御」はつけない。

以上、迎えの殿道のはなし。


(四)佐和山残照


 例によってハナシが横道にそれすぎた。本稿のタイトルは「佐和山残照」である。先に大手の方面とは幼児より殆ど縁がなかったと書いたが、少し城の正面からのことを書いておきたい。

 佐和山城の大手はかなり壮大な構えのもので、門櫓は八ツ棟造りになっていたことが古謡によって知れる。今は跡形もないが、大手の入り口や角櫓があったらしい。三の丸、その他の出丸や堀の跡などが微かに地形から窺える。
大手口あたりから西の方、本丸頂上あたりまでを見渡すと、かなりの距離がある。左右の頂上から流れた山の突端から平地全体の地積を考えると、宏大である。この中に往時は城主や主力侍衆の屋敷がびっしりと建ち並んでいた。その状況の最盛時はおそらく三成時代であったと思われるが、それ以前ここは近世戦国史における最大の要衝であったから、幾多の英雄豪傑が去来した貴重な歴史舞台跡といっていい。

 六角・京極・両佐々木の争奪から信長、秀吉の滞留などを経て、関ヶ原後井伊直政の入封によって、この歴代の古城は城としての命脈を絶たれた。


(2021.12.11 続)
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