前後截断録 第50
関ヶ原へ 1
むかしから、年に一回ぐらいは必ず関ヶ原へゆく。
別にかくべつの目的があるわけではない。関ヶ原へ、ただ行くだけのことである。行ったら、その辺りの山や野を眺めて、そして帰ってくる。
大抵前年の記憶は忘れている。
二、三日前のことでもきれいに忘れているから、毎度が新鮮である。この年齢になると、「新鮮」というのは格別ありがたい。何をみても出来るだけ新しい発見をするようにして感心し、またすぐ忘れる。

関ヶ原 家康首実検跡地横にて木登り
行けば必ず訪れるのは三成の陣所跡とされる笹尾山、その前の畑地に建つ決戦場の碑のところ。そして徳川軍勝利の首実検場趾。
三成が本陣を構えた笹尾山から東をみると、古戦場は殆ど一望の内にある。西軍の諸勢の配置を考えると、西軍石田方の配陣は完璧なものである。徳川方は西軍の包囲網の中にある。家康は西軍諸勢の配置を了知した上で、赤坂から出軍し、あえてその包囲網の内に軍を置いた。いわば死中に活を求めた必死必勝の覚悟で、桃配山に即(つ)いていたわけだ。事前に松尾山の小早川軍内応の約諾を得ていたとしても、戦勢の如何によっては、小早川のことである。向背さだかではない。裏切るものは、再び裏切るのである。戦国を生きぬき、勝ち残って来た家康に左様な常識は不要だ。——と、そんなことをとりとめもなく、関ヶ原のあちこちを走ったり歩いたりして考える。いくたびも同じ思いのくり返しだ。

家康首実検跡地前にて(約十二年前の古写真)
三成の陣所の前、今は一面の畑地になっているが、四十年前毎年初夏は苺畑になった。シーズンが来ると苺狩りの人々で賑わった。
苺狩りは毎年参加のメンバーで、小さかった姫たちをつれて行くのが楽しみであった。
採り放題、食べ放題であるから苺好きにとってはたまらない。もう当分苺という字さえみたくない、と思うほど決定的に飽食して帰るのだが、次の日になると、また喰いたくなる。苺はそれほどの好物であったが、近頃は年のせいかそんな執着から離れた。
それほど思わなくなった関ヶ原の苺畑のことも、あまり聞かない(調べてみたら今も季節が来ると開園しているらしい)。
左近死し、兵庫も死んで苺かな
左近は島左近清興(実名勝猛は正しくないという)、そして舞兵庫。いずれも三成家中の重臣であったが、決戦の時、今は苺畑になっている周辺で戦死した。かつて屍山血河を現代人は行楽している。桑田、滄海のはなしより凄まじく感じるのは、あの関ヶ原の戦いに思い入れがすぎるからであろうか。

関ヶ原決戦跡地の苺狩り畑にて(約三十年前の古写真)
続く
(2020.11.15)
スポンサーサイト