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前後截断録 第47回

時代劇は東映!参
両御大と大友柳太朗


大友柳太朗快伝より
筆者の愛読書である『大友柳太朗快伝(ワイズ出版ー1998年1月25日発行 大友柳太朗友の会 編)』より

次は大友柳太朗。
映画全盛の時代劇の俳優の中で、いちばん侍らしい格禄、面構えを具えていた役者は大友柳太朗である。殺陣(たて)のスケールが大きい。太刀捌きが抜群にうまい。戦国時代の大酒飲みの豪傑を演(や)らせたら、この人の右に出る人はいない。今後もおそらくみることはあるまい。

よくみると、この人の豪快さの裏には何か哀愁がある。そこはかとしたおとこのかなしみのような、微妙な色合いのものといったらいいかも知れない。演技は器用であるとはいえない人であったが、このかなしみは「大友柳太朗」本来の持ち味であったのだろう。
スクリーンの中で大抵かれは酒豪である。大瓢箪を大口あけて飲み干し、槍ふりかざし豪快に叫び笑うが、内心にはテレ隠し、やせ我慢、格好づけが濃厚にかくされてある。その裏側を、我々は何となく楽しみつつ肯定する。かれの大抵の作品のなかでは安心の範囲の寂寥だから、陰々滅々がない。手に汗握るような波瀾があってもそれほど肝を煎ることはないと。かりにシリアスなストーリィであったとしてもそこに「深刻」は根深く存在しない。
かれが全盛の昭和三十年前後、彦根城のロケでなんどもみたことがあったが、くわしいことは何も記憶にない。けれど、かれは土着の井伊家のサムライであって、それも歴々の重臣であり、問題の裁決をするため登城してきた。もう安心せい——といった気配をあたりに漂わせているのが常であった。
ひとつ鮮烈におぼえていることがある。映画のグラフ雑誌に、かれが手に入れた甲冑と共に紹介されたことがあった。それがなかなかいいものとして当時の私には羨しく思われた。この甲冑はのちにどういうわけか米子市に寄贈され、城におかれていた。

ずっと後年、鳥取大山方面を旅して米子を訪れた際、思い出して城を訪れ訊ねたことがある。柳太朗のヨロイは一度も飾られることもなく、今も倉庫代りの部屋の一角に置かれたままであるという。折角だからお見せしましょう、ということになって、見せてもらった。
米子の城の関係者はいずれも親切な方々であったが、これでは一寸勿体ないですね——と残念の思いを告げたことを憶えている。大友柳太郎の遺志は今も生かされていないのだろうか。

ヨロイに限らず歴史資料類は「寄附先」の受入れ状況を知らないと、折角の厚意が生かされないままになってしまう。当該の人々に悪意はないことは十分にわかっていることだが、どうしたものだろう。

大友柳太朗の作品で、心につよくのこっているのは『酒と女と槍と』筋書きは面倒なので省かせてもらうが、これは海音寺潮五郎さんの同名の小説をたしか内田吐夢監督がメガホンをとったもので、単純だが雄勁な戦国武士の悲劇が描き出されてよかった。後年、京都での時代劇が衰退して東京に移ってからも、現代物のテレビでいい作品に登場しているが、かつての時代劇大スターの境遇からみれば、本人自身落魄の思いはかくせなかったと思う。かれにとってはまことに生きにくい時代の転変であったろう。その突然の死の衝撃もいまだに忘れられない。

大友柳太朗はしかし私の心の中では永久に、大瓢箪を腰からはなさない痛快極まりない一本槍のもののふとして生きつづけている。
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前後截断録 第46回

時代劇は東映!弐
両御大と大友柳太朗

美剣士両御大
筆者の愛読書である「美剣士ーワイズ出版、1998年12月1日刊『美剣士』円尾敏郎、高橋かおる編」より


 両御大とは東映時代劇を支えた二人の超大物俳優、市川右太衛門と片岡千恵蔵をさす。「御大」とは、「御大将」の略だ。この二大スターの名を知る人も少なくなったが、まず市川右太衛門から。
右太衛門は現在活躍中の北大路欣也のお父さんである。

 北大路欣也はたしか私と同年だと思うが、この方は少し生まれてくる時代が遅すぎた。いい役者さんだが、こじんまりとまとまりすぎてしまったような気がする。

 勿論この人の作品全部を見ているわけではないからエラそうなことは言えないが、彼の演技が一番よかったのは「仁義なき戦い」の若い広島ヤクザ。あれは良かった。 あの映画は、扱っている対象の是非は論外として、ヤクザ映画の最高傑作だと断言できる。彼はこの映画で演技開眼した、といってもいいくらい、悽いシリアスな演技をした。当節はややは好々爺になってしまった感じであるが、それは単に加齢のためではなく、全力でぶつかるような重い迫力ある作品に出会う場がなくなってしまったせいかもしれない。
「仁義なき戦い」はどの俳優もよかった。先般死んだ松方弘樹も、ニヤケがなくてよかった。この人は祇園の花見小路のクラブから出てくる姿を何度も見たことがあるが、その時の姿勢は映画と違って、周囲の人に大変気を遣った低いものであった。出口で人々にペコペコする姿は、スクリーンの上とは全く違った。私は祇園のほとりに長年棲んでいるので、芸能人にはよく出くわす。はなしが脇へ逸れた。

 市川右太衛門のことである。
京都に就職していた二十歳の頃のある夜、祇園石段下、ちょうどいまスターバックスのある辺りで、八坂さんの方から市川右太衛門がたぶん奥さんであろう、一緒に歩いて来るのに行き会った。私は目敏く市川御大をみつけたら、向うも私をみて、目と目が合った。そしたら御大は私の目を見て微笑し、軽く会釈してくれたのである。私は現役の時代劇の大スターの振舞いにびっくりした。

 その所作の、自然な丁寧さに本当に驚いてしまって、同行者に「凄いな・・今の、市川右太衛門や」「本当にどうや、頭下げはった。えらいもんやなあ」となんども感激を叫んだのであった。一方で、あの銀幕では大きくみえる右太衛門が、スクリーンとは異なって現実には意外にも小柄であったのも驚きのひとつであった。要は演技力だったのだろう。

 右太衛門の代表作はいうまでもなく東映時代劇のドル箱企画として連作された「旗本退屈男」で、殆どワンシーンごとに変わっているのではないかと思わせる程な衣裳の豪華さ、七百石の旗本侍という設定ではありえない贅沢を、まさに夢の如くに相似たり——と禅語ではないがなかば呆然として楽しんだものであった。

 片岡千恵蔵は東映時代劇両御大の内の一方の頭領である。
この人は中学生の頃、赤穂城なんとかという題名は忘れたが忠臣蔵関係の撮影に彦根城へ来ていたとき、ずいぶん間近にみたことがある。

 大石内蔵助の役で、場所は二の丸多聞櫓前、城内の名所である「いろは松」のかかり口においてであった。空は天気よかったが、内蔵助は傘をさし、ホースから空へと水がまかれていた。雨の中のシーンである。
撮影は城へ登る途中、内蔵助が濠から這い上ってきた侍に対面し、何かを告げられる——そんな簡単なものだった。内蔵助は側に小姓をつれ、佇立する。濠の泥水にまみれた侍が、何やらセリフをいう。内蔵助はこれといった動作はせず、小さく反応する——。マアこんな状況であったと思うが、これを内蔵助の千恵蔵は当然ながら一発で決めている。この位のカットは軽いものである。ところが、端役(といっては失礼だが)に近い侍の俳優が、自分の演技に不満があったのか、何度も濠の中へ入ってやり直しを要求するのだ。見ていても、別にもういいのに、と子供ながらにヤキモキしたものだが、千恵蔵は厭な顔をせず、いちいちそのやり直しに応じていた。

 私はその忍耐強さ、映画撮影の大儀さに呆れる程に感心したものである。たしかにこの風景は学校の時間割に従う勉強より、ある大切な何かを私に教えてくれたのではないかと今となっては思う。

(続)