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前後截断録 第44回

大島邦秀中佐戦死の遺品
—神風連の乱—



全体

 明治九年の秋、熊本で不平士族による反乱事件が勃発した。いわゆる神風連の乱である。この事変は短期に平定されたが、その後に続く明治新政府の鼎の軽重を問われることとなった西郷隆盛の西南戦争に至る、いわば前触れ的反乱であった。この事件が発生した直後熊本鎮台に属していた旧佐賀藩士大島邦秀中佐は、出向地から鎮台に戻る途中賊徒数名に不意を襲われ、奮戦の末、壮烈な死を遂げた。

 不思議なことに、このたび縁あって、大島中佐戦死時佩用の武器を熟覧することを得た。その刀身には何ヶ所も鋭く切り込まれた敵の刀痕があり、鞘や剣帯にも何ヶ所も切り込みのあとがあって、一見してその奮斗のすごさがまざまざと想像される凄惨なものである。大島中佐は佐賀藩中きっての剣客であったが、実はこの刀身には刃(は)がはじめから無い。儀仗刀なのだ。ありていにいえば、オモチャの刀である。なんと敵の真剣白刃に対して殆ど効き目のない模造刀で、絶望的な立ち廻りをしたわけだ。

 こんな飾りのサーベルで複数の敵刃を相手にして折られもせず、切先にいささかの損傷も蒙らずに善戦したことは賛嘆に値いする剣技である。このような貴重な歴史の証人に見(まみ)えられたことはまことに幸運であるといわなければならない。また同時に大島中佐の剛毅な風貌に直に接したようでただ感動するばかりである。戦争を賛美するわけではないが、その士魂は男子の本懐であり、惰弱な現代のわれらには大きな励ましになる気がする。爾来およそ150年の時が経過した。ここに資料を提示し、大島中佐の冥福を改めて祈りたいと思う。

箱の蓋
サーベルの納められていた箱(表裏)

剣帯
剣帯

剣帯傷部分
剣帯の切り込み傷部分拡大

軍剣傷
サーベル切り込み傷部分拡大
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前後截断録 第43回

家康像に因んで
   ——人生・夢のスタイル——


備前勝政作家康
備前勝政作 徳川家康坐像


 ごらんの通り、徳川家康の像である。備前焼の勝政作とあるが真偽は知らない。それはどうでもいいことである。掌に乗せるには少し大きい座像である。

 焼物は嫌いではないが、打込むほどの執念もない。どこかで歴史に係るような、たとえば某拝領の呂宋壷とか、史的有名人の所用品、あるいは自作の茶碗など。それは面白いが、真物はそこいらに簡単に転がってはいない。若い時古い壷にはまったことがあった。信楽や伊賀、丹波ものである。これも二十代の時は時折掘り出しがあって、あけくれ、つぼ、ツボ、壷々・・・といっていたが、いつの間にかキツネは落ちた。

 いま手許で大事にしているものの代表は、井伊直弼自作の楽茶碗ひとつである。これは実用品ではなく「歴史資料」としてもっている。直弼にとって最も代表的な作品で、これまで行方が謎とされていたが、奇縁で私のところへ来た。この茶碗のことは機会があったらふれるつもりなので、今は措く。

 ところで、この陶製の家康の像である。どこで購ったのか、もうそれも忘却の彼方であるが、久しく茶室(一度も茶席を設けたこともない)の奥に箱に入ったまま放置されていたものである。去年の大晦日、掃除をしていた時発見した。

 いまこれを改めてみてみると、作者に失礼だが、まんざらでもない。
小肥りの躰を小袖に包み、胡坐をかいてゆったりと脇息に凭れかかった姿には、おのが人生に対する自信と余裕が感じられる。信長が本能寺に斃れたあと、織田氏の羈絆を脱し、秀吉と小牧長久手に戦って敗れなかった天正十二年、四十三歳の頃か、と考えてみたがどうか。
 両眼を柔らかく閉じ右手の扇子を膝もとに、左手で耳朶を揉んでいる。家康はリラックスしたり、思案に耽るとしばしば耳朶に手をあてたという。この辺のエピソードを作者はよく承知して表現している。
 さて、この家康は何事に思いを馳せているのだろう。鬢髪いまだ黒く、髻高く結い上げた豊頰の円満相には、既に具足された栄光の未来が仄見える。表情とは裏腹に肚中には図り知れぬしたたかさが隠されている筈だ。

日本史上、家康ほどおのが人生を忍耐強く生きた人を知らない。この像はあく迄想像の産物だが、いろいろ考えさせられる。見ていて飽きない。この格好はわが憧憬、夢のスタイルである。

 日々の匆忙に紛れて足許を忘れかけたとき、折角見出したのだからこの家康に対面して一碗を喫すべきだが、それが叶う余裕がもてるかどうか。ともかく余生はしなやかに、あるいは屈強に、家康さんに遠く及ばないが忍耐強く生きたい。㐂寿を踰えての感慨に、自賛して一盞。


                                   (二年正月三日)