前後截断録 第38回
意地と勇怯
江戸前期まで、およそ武士と生まれ生い立ったものは、臆病を口にしてはいけなかった。常に強がり、肩肘はって、周囲を睨めまわし、大言し壮語する。たしか『葉隠』だったかに、「武士は一日七回は虚言を吐け」というようなくだりがあったやに思う。一日のうちできるだけ多くデカいことをいう。命など全く惜しくない。いくさとなれば俺が一番ヤリだ。殿の馬前で一番に死ぬのも俺だ。何もかも俺だ。御家は一人で俺が担いでいるようなものだ。文句あったらかかってこい。俺だ、俺だ。こんな調子である。実戦に臨むとなるとたとえば城攻め、軍令など誰かが破れば、あとは有って無きが如きもので、我も我もと前へ出る。この好例が大阪冬の陣の真田丸攻めである。
慶長19年12月4日早朝、真田丸の前面に仕寄をつけていたのは加賀前田、越前松平、そして井伊掃部助(直孝)の彦根勢。東軍の軍中でも最強を謳われたトップの三軍が詰めていたのであるが、この日は霧が深く、1メートル先もはっきりしないほどの寄手不利の中を、三軍の先勢はそれぞれ先を競って、ジリ、ジリと濠際向って寄せていった。先を越されてはならぬ、遅れをとってはならぬ。御家の名誉にかかわる。先駆禁止は公儀の厳命であったが、右が出れば中が出る。当然左も出る。するとまた中が出て右がつめる。互いに先を競って。やがて霧がはれたら、六文銭の旗の目の前。驚いたが寄手はあとへは退けない。三軍は濠際ギリギリのところまで寄せて切っていることを知った。このにっちもさっちもいかぬ時に、突出したのが井伊の先鋒木俣右京守安隊である。若干25歳の木俣は戦死はもちろん、切腹も覚悟で突撃し濠下へ飛びこんだ。
真田信繁からみれば射的に恰好の赤武者共が自ら進んで死地に飛び込んできたのである。あとは真田側の一方的攻撃で、まけず遅れじと火の中に飛びこんでくる夏の虫同然の加賀や越前勢もまとめて鉄砲や矢を雨霰とふらせる。徳川方の死傷者は山を築いた。
つまり、真田丸攻めは井伊の木俣が軍令を敗って開始し、加賀も越前も巻きぞえにした上に戦果はゼロの大敗北を喫したわけだ。
この状況を知った将軍秀忠は激怒し、軍令違反と敗戦のもとのぬけがけを犯した木俣を切腹させる、井伊直孝を譴責するといきまいて、家康の本営に駆けこんだ。寄手全軍にこの事件はすぐに知れ渡り、一様に秀忠の怒りは当然、木俣めは怪しからぬ——と非難した。
ところが、秀忠から事情を聞いた家康は、秀忠に同意するかと思いきや意外な反応を示した。木俣守安の切腹はもちろん、井伊直孝叱責の件を却下したのである。曰く、武士とは申せみんな命は惜しい。戦えと命じても敵中へは進み難いものだ。それを、先駈厳禁と寄手中に法度したにもかかわらず、死を覚悟して敵中へ突撃した木俣の志は見上げたものである。法度の適用も時宣による。かかる時は勇気をふりしぼって敵に一塩(ひとしお)つけることは肝要である。もとより勝敗は度外のものである、と。
この家康の一言はたちまち寄手全軍中にひろまった。家康から金言を賜った木俣右京守安は一夜にして東軍中第一のヒーロとなった。無名にちかい一侍大将が日の本一の勇士とされたのだ。この時守安のヨロイには鉄砲の玉疵が十六もあったという。
木俣守安は身辺大変結構な按配になったが、ここでまことにまずい立場に立たされた井伊の武将がいる。河手主水良行である。河手は木俣と同じく井伊の先手二備の内の片翼を担っていた侍大将であったが、相備の木俣が違法の先駆けをしたとき、軍令を守って兵を動かさなかった(河手の持ち場は後備であったという説もあるが、前後の事情から先手説を採る)。つまり河手主水は公儀の軍令を第一に遵守し、忍耐して兵を動かさなかったのである。これは至極もっともなことである。しかし世評はこの我慢する正義を支持しなかった。理屈はどうあれ、先鋒の1/2が動いたら、まけずに残りの1/2も動くが至当であるということだ。全体のことは大将に任せればよい。先鋒は先手らしくふるまわなければならない。この際勝敗は別のはなしで、思案の外のことである。
結果、河手主水良行は男が立たなくなった。この場合、主水を窮地から救う只一人の人物であったのが、主将の井伊直孝である。直孝がその日のうちに主水と会って「よくガマンしてくれた」と家中の侍たちの前で一言いえば、面目はたった。しかし直孝はそれをせず、その後かれが会ったのは木俣守安だった。直孝は手傷を負った木俣をわざわざその陣営に訪ね慰問したのである。これはあきらかに直孝の片手落ちの行動であった。木俣も、河手も、直孝もみんな二十代の青年武将、みんな若すぎたし、老巧の侍たちも、手柄にならぬ差出口はしない。事実はどうあれ、木俣は勇士と讃えられ、一方の河手は臆病者と謗られ卑怯者の烙印を押されてしまった。
翌元和六年五月、夏の陣において若江堤に対峙した木村重成の前軍に対し、井伊勢から只一騎先駆して自殺同然の討死をした武将がいた。河手主水良行である。主水の行動は勿論手柄にはならず、その行動は直孝の怒りをかった。主水はおのれの一命を捨てて勇怯とは何か、そして世間の沙汰の是非を問うたのであった。主水の墓が彦根城下に許されず、程離れた荒寥の地大三昧にあるのはこのためである。
木俣守安も直孝も大切であるが、私が主水良行のことを偲ぶときは、いつもどこかに供養の思いがある。

名馬(アオ)の墓前にて 令和元年十一月
江戸前期まで、およそ武士と生まれ生い立ったものは、臆病を口にしてはいけなかった。常に強がり、肩肘はって、周囲を睨めまわし、大言し壮語する。たしか『葉隠』だったかに、「武士は一日七回は虚言を吐け」というようなくだりがあったやに思う。一日のうちできるだけ多くデカいことをいう。命など全く惜しくない。いくさとなれば俺が一番ヤリだ。殿の馬前で一番に死ぬのも俺だ。何もかも俺だ。御家は一人で俺が担いでいるようなものだ。文句あったらかかってこい。俺だ、俺だ。こんな調子である。実戦に臨むとなるとたとえば城攻め、軍令など誰かが破れば、あとは有って無きが如きもので、我も我もと前へ出る。この好例が大阪冬の陣の真田丸攻めである。
慶長19年12月4日早朝、真田丸の前面に仕寄をつけていたのは加賀前田、越前松平、そして井伊掃部助(直孝)の彦根勢。東軍の軍中でも最強を謳われたトップの三軍が詰めていたのであるが、この日は霧が深く、1メートル先もはっきりしないほどの寄手不利の中を、三軍の先勢はそれぞれ先を競って、ジリ、ジリと濠際向って寄せていった。先を越されてはならぬ、遅れをとってはならぬ。御家の名誉にかかわる。先駆禁止は公儀の厳命であったが、右が出れば中が出る。当然左も出る。するとまた中が出て右がつめる。互いに先を競って。やがて霧がはれたら、六文銭の旗の目の前。驚いたが寄手はあとへは退けない。三軍は濠際ギリギリのところまで寄せて切っていることを知った。このにっちもさっちもいかぬ時に、突出したのが井伊の先鋒木俣右京守安隊である。若干25歳の木俣は戦死はもちろん、切腹も覚悟で突撃し濠下へ飛びこんだ。
真田信繁からみれば射的に恰好の赤武者共が自ら進んで死地に飛び込んできたのである。あとは真田側の一方的攻撃で、まけず遅れじと火の中に飛びこんでくる夏の虫同然の加賀や越前勢もまとめて鉄砲や矢を雨霰とふらせる。徳川方の死傷者は山を築いた。
つまり、真田丸攻めは井伊の木俣が軍令を敗って開始し、加賀も越前も巻きぞえにした上に戦果はゼロの大敗北を喫したわけだ。
この状況を知った将軍秀忠は激怒し、軍令違反と敗戦のもとのぬけがけを犯した木俣を切腹させる、井伊直孝を譴責するといきまいて、家康の本営に駆けこんだ。寄手全軍にこの事件はすぐに知れ渡り、一様に秀忠の怒りは当然、木俣めは怪しからぬ——と非難した。
ところが、秀忠から事情を聞いた家康は、秀忠に同意するかと思いきや意外な反応を示した。木俣守安の切腹はもちろん、井伊直孝叱責の件を却下したのである。曰く、武士とは申せみんな命は惜しい。戦えと命じても敵中へは進み難いものだ。それを、先駈厳禁と寄手中に法度したにもかかわらず、死を覚悟して敵中へ突撃した木俣の志は見上げたものである。法度の適用も時宣による。かかる時は勇気をふりしぼって敵に一塩(ひとしお)つけることは肝要である。もとより勝敗は度外のものである、と。
この家康の一言はたちまち寄手全軍中にひろまった。家康から金言を賜った木俣右京守安は一夜にして東軍中第一のヒーロとなった。無名にちかい一侍大将が日の本一の勇士とされたのだ。この時守安のヨロイには鉄砲の玉疵が十六もあったという。
木俣守安は身辺大変結構な按配になったが、ここでまことにまずい立場に立たされた井伊の武将がいる。河手主水良行である。河手は木俣と同じく井伊の先手二備の内の片翼を担っていた侍大将であったが、相備の木俣が違法の先駆けをしたとき、軍令を守って兵を動かさなかった(河手の持ち場は後備であったという説もあるが、前後の事情から先手説を採る)。つまり河手主水は公儀の軍令を第一に遵守し、忍耐して兵を動かさなかったのである。これは至極もっともなことである。しかし世評はこの我慢する正義を支持しなかった。理屈はどうあれ、先鋒の1/2が動いたら、まけずに残りの1/2も動くが至当であるということだ。全体のことは大将に任せればよい。先鋒は先手らしくふるまわなければならない。この際勝敗は別のはなしで、思案の外のことである。
結果、河手主水良行は男が立たなくなった。この場合、主水を窮地から救う只一人の人物であったのが、主将の井伊直孝である。直孝がその日のうちに主水と会って「よくガマンしてくれた」と家中の侍たちの前で一言いえば、面目はたった。しかし直孝はそれをせず、その後かれが会ったのは木俣守安だった。直孝は手傷を負った木俣をわざわざその陣営に訪ね慰問したのである。これはあきらかに直孝の片手落ちの行動であった。木俣も、河手も、直孝もみんな二十代の青年武将、みんな若すぎたし、老巧の侍たちも、手柄にならぬ差出口はしない。事実はどうあれ、木俣は勇士と讃えられ、一方の河手は臆病者と謗られ卑怯者の烙印を押されてしまった。
翌元和六年五月、夏の陣において若江堤に対峙した木村重成の前軍に対し、井伊勢から只一騎先駆して自殺同然の討死をした武将がいた。河手主水良行である。主水の行動は勿論手柄にはならず、その行動は直孝の怒りをかった。主水はおのれの一命を捨てて勇怯とは何か、そして世間の沙汰の是非を問うたのであった。主水の墓が彦根城下に許されず、程離れた荒寥の地大三昧にあるのはこのためである。
木俣守安も直孝も大切であるが、私が主水良行のことを偲ぶときは、いつもどこかに供養の思いがある。

名馬(アオ)の墓前にて 令和元年十一月
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