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前後截断録 第37回

恐怖の「スイアゲ」②
大三昧のスイアゲ


吸い上げ

 以下は現在の話である。
河手主水良行の墓のことはこのブログで書いたことがある。これを読んだ人の中に、主水のことに興味をもつ人ができたのか、あるいは墓の管理者が気が付いたのか墓域が綺麗になって、さらに最近河手家の墓の一部が余所へ移されていることに先日気が付いた。

 後代添え置かれた墓の主人たちは、それはそれなりに、不遇の先祖を偲んで、背中合わせの倶会一處を営んでいるのに、娑婆の生き者の勝手な裁量で余計なことをするものだと、瞬間微(かす)かないきどおりを感じたけれど、お守りの手が届く現世の所縁の人々のさまざまな都合もあるのだろうと思い直した。

 むしろ、ここには河手主水良行と息子の采女良富(のちに主水と改めている)の墓が仲良く並んでいる方が、本来の姿でいいのかも知れぬ。この辺り一帯今はどうか知らないが、古字名を「大三昧」(おおざんまい)という。一度どこかで書いたような気がするが、三昧とは墓地のことであって、ここは往時いまよりずっと広大な墓域であった。主に色々事情をもった死者たちを葬ったところで、ほとんど百姓庶民たちの集団墓であったろうと推測されるが、その規模は地名の誌すごとく大変広いものであったから、江戸中期頃までは昼尚暗いという形容がぴったりの不気味で陰惨な、鬱蒼たる森林地帯であった。

 今はもう既に往時の凄気は喪っているものの、感覚の鋭い人はその気味悪さを肌に覚える筈である。私が最もおそろしさを感じる「スイアゲ」がこの主水の墓の隣りに現存している。これまで知ったうちでもっとも大きいもので、また深さも尋常ではない雰囲気である。余りに不気味で雑草が枯れていてもなお生い茂っているような気配があって、傍へ近付くこともできない。勿論傍の古小屋のダイナモも今はもうすっかり稼働することもなく鎮まっている。その太く赤黝く錆びた鉄管は、鱗のない龍の腹のようで、それはゆるやかに曲って、万年水のように濁り腐った水の中に姿を消している。

 このスイアゲを、主水の墓を訪れるたびに行かなくていいのにのぞきに行くのである。俗にいうこわいもの見たさの物好きであるが、先日ふと帰りの車中でこんな心配が脳裡をよぎった。たしか周囲には防護柵も何も、危険を防ぐ予防措置は構じられていなかったのではないか。

 危ないからあまり近づいたことはないが、若し万一、何か事件が発生してあのスイアゲの水の中へ被害者が放り込まれでもしたら大変なことになるのではないか——場所柄簡単に発見されることはない。ここから先のことは地域管理者の思慮の範囲であって一考を要する問題であると思う。

 スイアゲ周囲の安全防護の設備については私の勘違いであればいが、そうでなければ手当は必要だろう。いずれにせよ恐ろしい情景の場所であって、その凄惨な気配は、たとえば暗夜の墓地を彷徨する恐怖よりはるかにまさっている。河手主水の亡霊が実は恐怖のスイアゲに変化(へんげ)して、その消えぬ怨みの血涙を今も流しつづけているのではないか——というような有りもしない、訳の分からぬ史的妄想は、恐怖を超えていっそ滑稽であるが、私の頭の中では、案外な現実性をもって迫ってくるのだ。こんどは一度しっかりと状況を正視しておきたい。こういう不気味な風景も軈ては消え去ってしまう運命にある。
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前後截断録 第36回

磯田さんの取材と古文書のこと


 先般、明智光秀を特集するTV番組の取材のため、磯田道史氏が取材関係者の方々と一緒に私のもとへ来られた。磯田氏はTVの歴史番組では当今最も登場率が高いと思われるメディアの寵児である。
 私は先年井伊直虎の資料発見に伴って記者会見をしたとき、報道された内容について最も正当な判断をして感想をのべていた研究家として、磯田氏の名前を記憶していたから、ステーションからの取材依頼を快く引き受けたのであった。
磯田さんは、先年のことを記憶していた。むしろ覚えていたからこそ、興味がつきていなくて、別の取材を幸いに、いわばそれに事寄せてこちらにみえたというのが本当のところであろう。
大河井伊直虎ドラマのとき、直虎が女ではなく男であって、その直虎の活動、生死の事実を記した文書資料を取材に先立って拝見したいというので関係資料をお見せした。本題の光秀関係資料の取材が控えているので、十分余裕がないのが遺憾であった。
 磯田さんの今回の井伊美術館取材のテーマは明智光秀の遺品や記録の探索である。とくに当方は光秀の刀剣や甲冑、それに光秀本能寺襲撃に至っての重要言動記録を古文書の中から私が発見したので、それらの実見と紹介が中心となった。視聴者の一般はやはり武器に興味がある。光秀の愛刀は私の関係先からみつかったものだが、スタッフの人々もやはり一番に刀からカメラを回したいようだった。ところが磯田さんは井伊家関係の古文書や記録に興味がある。光秀が本能寺襲撃に際して部下に指令した重要なことばの部分を古帳をひろげて指し示すと、むしゃぶりつくようにして、その部分を声を出して読んだ。

(本能寺にいる連中は)
「足袋、脚絆もしていない。足許が汚れていないから、そういう輩は全て殺せ」

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本能寺襲撃の際、
光秀の命令指示の記録をのせる彦根藩記録


 記録の古文を現代風に意訳するとおおよそこのような命令を光秀は下しているのだが、それを文書のままスラスラと読んだ。文書の書体は今でいう標準語的なわかりやすい整った書体だから磯田さんにすれば(私も含めて)それは当たり前のことである。ちがっていたのはそのような新しい知見に対する表情であった。本能寺宿営の敵は、光秀軍とは異り行軍してきたわけでもなく、旅装もしていないので足もとは綺麗で汚れていない。この場合の光秀の指示は、いかにも光秀らしい端的で抜け目のない、みごとな命令であるが、その悽さが磯田さんの六感には戦国の匂いとして今、その場で光秀の肉声をじかに聞いたように思えたのであろう。表情全面が輝いて、まことに大どかな喜色を満面にあらわした。TV上の演出という部分を十分に割引いても磯田さんの振りはほんものであった。

 およそ「学者」と称(い)われ、それを自認する人々は、真の表情をおもてに出さない人が多い。内心びっくりするようなモノを目にしたり、触ったりしても無表情で、この程度は何てことはない、という顔をする。ホントはモノがよくわからない、目の利かない人が多いのかもしれない。実際、過去にこんなことがあった。歴史関係の某有名大学の名誉教授だったと思うが、たしかお弟子さんをつれて来たと思う。何の古文書か忘れたが、それをみせたら、先生はじめは順調に行っていたがある所でつまづいた。読めないのである。困っているので「それは・・・ですよ」と教えたら先生は弟子の方に向かってこう宣うた。「・・・ナルホド。そうも読むこともありましょう」

 活字になった古文書や記録ばかりを読んで、現物に直接当らない「歴史家」といわれるセンセイも少くないのである。
たとえば、一般的な藩の公式文書のようなものは祐筆の手になった万人向きの正統書式を採っているから、まじめに半年勉強をすれば大抵は読みこなせるようになる。しかし、個人の自筆、特に癖字の人のものになるとそう簡単にはいかない。

 私自身の感想で言えば、近世文書の範囲では、桃山〜江戸前期の人々の書いたものは取付きやすい。しかし、幕末の多忙時に書き流した人の文字はむつかしい。それを井伊家の人々にたとえていうとその代表は井伊直弼である。かれの崩した走り書きの文字は厄介である。歴代中もっとも難解で、自己流の崩し文字も多数混淆されているので、一読了解には程遠い。かれの読後火中の密書など、スラスラやった人はいまだかつてない。それは当たり前なのである。

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井伊直弼の絶筆(一部)
三浦内膳宛(安政七年二月二十五日付)


 磯田さんの話から、いつの間にか井伊直弼の文字に話が飛んでしまったが、そんな難物を今は亡き末松修という直弼研究の先生と一緒にああでもないこうでもないと一字一字思いはかりながら読んで若い頃が懐しい。
 あの頃の古文書の匂い、それは現在でも変わらないのだろうけれど格別香り高かったように私には思えるのである。

前後截断録 第35回


恐怖の「スイアゲ」① 幼い頃の記憶
—吹雪ニモ嵐ニモマケナイガ—



 小学生の一時期、それまで育った彦根駅前から移住して近郊の農村豊郷にくらしたことがある。転校せず彦根城東小学校までの日祭日以外は毎日汽車で通学した。「通学」とカンタンに書いたが、村から東海道本線河瀬駅まで歩き、そこから彦根駅で降りて、江戸町といった学校まで一時間余り。往き帰り二時間を殆ど怠ることなく頑張った。

 怨みごとではないが昭和27、8年当時、10才になるかならぬかの小童が一人で田の中の淋しい道を明け暮れ通学するのである。今にして思えば一人息子であるわたしに考えられないほど危険な日常を母はさせていたことになる。片道およそ2、3キロと思われる。大きく、小さくくねくねと曲がった田畔に毛が生えたほどの頼りない道を、雨の日も風の日も、それこそ吹雪のときも嵐のときも、雪ダルマのように、濡れネズミのようになっても、通い続けた。本当によくやったものだとこの頃振り返って思うのである。とくに冬は堪えた。風雪が烈しいと飛ばされそうになる。刈り取ったあとの稲束を長い組竿の上に架け並べた、あの時、あの土地では「オサ」とか何とかいったが、その陰に忍んで凍えた両手に息をあて風冷に耐えたこともしばしばであった。帰りみち駅を降りて小さな数軒の駅前の家々をすぎると、あとは一面の田野で、帰る村の目印である森が彼方にみえるのだが、吹雪くと、その森がもうみえないときがある。心細く、頼りなくて、もう泣きそうだったが、耐えるしかなかった。道はそれしかなかったのである。

長久手
田野も用水地も昭和40年代には大きく変貌し去った

 この時の田舎でのいわゆる艱難辛苦が、今の自分のバックボーンになっている。あの頃の苦労を思えば、現在の万事は何事もタカの知れたことだと思えるのだ。
 さて、ここから本題に入るのだが、当時あるいは現在でも同じであったろうけれど、田野の中に田畑灌漑用の揚水場の池があちこちに散在して設けられていた。俗にスイアゲ(吸い上げ)といっていたが、田植えどきになると、これらの揚水場に設置された揚水用ポンプのモーターが稼働して、勢いよく水を吸い上げ、水路から田毎へ水を運んだものだが、農閑期になると当然ながら働くのを止めて止まる。
 揚水場の池は井戸の様な小規模のものからプールほどの大きさの深いものまでさまざまであるが、これが夏から秋にかけ動かなくなって止まってしまうと、アッという間に池の中に苔や水草などがヘドロのように溜まって化物の棲処(すみか)のようになる。池には揚水のための鉄菅がポンプ小屋(これも大小いろいろある)から出て、青深泥の水の中へ逆「くの字型」に潜り沈んで、黝く消えている。それはどこまでも底なしに長くのびて沈んでいるように、幼いわたしには思われた。

 この揚水場の大型のやつが、当時既にモータがいたんで何年も使われていないのが、通学していた農道の途中位にあって、いつもわたしを脅かした。なぜならそこには子供のふた抱え程もあるすごく太い大きな鉄菅が赤黒く錆びて万年溜めのように青く淀んだ水の中へ潜りこんでいるのだ・・・。溜池の周囲には防護柵など何もない。ちかづいて覗くこともあぶなくておそろしいからできない。帰りが遅くなった夕暮れにここを通ることは、まさに「逢魔ヶ刻」の大冒険だった。村の子供らは危険を承知だからこんな刻、こんな場所を一人で行ったり来たりはしない。そんなことをしていたのは自分一人であったことを後で知った。無事息災であったことが不思議なくらいである。

 要するに揚水場—スイアゲ—の不気味なおそろしさは、特にその幼時の恐怖は、自分の筆力ではここに書きつくすことはできない。宮沢賢治の詩ではないけれど、ふぶきやあらしには負けないがこのスイアゲは今思い出しても怕い。

 直径二メートルほどの井戸に10センチほどの鉄管が側壁から井の中央に直角に曲がって入っている小型のスイアゲが村の森の傍にあって、そこに白い蛇が巻きついているのをみたのもその頃のことである。あの蛇は一体どうして外へ出るのだろうか。今でも不可解で、ときおり記憶に蘇って考え込んでしまうことがある。あのとき蛇の目と自らの目線が合ったままだった。蛇の目は、こちらを凝視しているのは当然なのに、魅入られたような気味悪さだった。恐怖のスイアゲの話しはまだ続きがある。