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前後截断録 第31回

西郷家の怨霊(2)
〜つきまとった幽霊〜

 前後切断し、一回読切り話でゆくのが本稿のスタイルであるが、今回は継続譚になってしまった。怨霊さまは丁寧に扱った方がいいので、少しくらい長くなってもいいだろう。
 前回、西郷家の子守りの女が、不注意で主人の子供を死なせ殺害されて怨霊になったという話を書いた。これを事実のことして考えると埋設された小石群に施された供養梵字からも、西郷邸が現今の位置に建築されて以後のことである。
 つまり完全に江戸時代に入ってからのことである。ただの伝説といえば、そのていのものであるが、別に史料的に明確に残された怨霊の記録がある。
 私蔵の史料の中に『新野左馬助親矩由緒』という江戸初中期の記録がある。
 新野左馬助といえば、戦国末の今川家にあって、裏亡の一途を辿る井伊家のために尽力し、井伊家再興の途をひらいた恩人である。井伊家が江戸時代に大繁栄するもといは、この人の身命を賭した井伊氏への一途な誠心によってひらかれたと言っても過言ではない。
 さて、その記録の中に戦国井伊谷における井伊氏のー族中最も大きな勢力を保っていた奥山親朝の子弟6人を記した一項がある。理由は左馬助の妻が親朝の女の一人であったからだが、その妻の姉に西郷伊予守正員の妻となった人がいる。その女のところに次のような註記がある。

 世ニ西郷氏ノ怨霊ト云ハコノ御方也…。

(続)

新野左馬助親矩由緒
新野左馬助親矩由緒
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前後截断録 第31回

西郷家の怨霊(1)
〜つきまとった幽霊〜

 これはもう五十年も昔の記憶になる。代々彦根藩家老を務めた重臣、西郷家の本邸跡地から奇怪な小石がたくさん発見されたことがある。石の面にそれぞれ梵字を丁寧に書き込んだもので、それは単なる地鎮の為ではなくあきらかに何らかの霊魂を鎮めるためのものと思われた。
 今ではまず知る人はいないだろうが、西郷家にはこんな話が伝説されていた。
江戸はじめ、西郷家の当主に長男が生まれた。両親の鍾愛は大変なものであったが、ある日子守りの女中が抱き誤って地に落とし死なせてしまった。勿論不注意の過失による事故死であるけれど、時代が時代である。女中の処罰にそんな罪刑法定はない。女中は斬殺された。自己の犯した取り返しのつかない失敗によって殺される事は覚悟したかも知れないが、女中は怨みを残して死んだ。
 以上の話しは当時市内四番町で釣道具屋をしていた郷土史家のKさんから聞いた。典拠も何も確認したことないし、Kさんもその事には触れず、単なる昔噺として淡々と語ったが、私は興味深く聞いた。


 忘れかけていたが、梵字を墨書きした小石の群がなぜ発見されたか、その経緯を述べなければならない。旧西郷邸は大津地方裁判所の彦根支部として活用されていた。外見は家老屋敷の本邸そのもので、私も書士業をしていた頃、裁判書類の写しなどを取りに何回か行ったことがある。廊下など長年の使用に耐えた証だろうか、大変にデコボコしていたが、いい趣があった。
 これが新しく現代風に改築される事になった。取り毀して基礎工事をしている時発見されたのである。
 対面の彦根東高等学校の生徒の頃は、城の石垣の上からその本邸を眺めて、往時のことをいろいろ想像したもので、堂々たる長屋門とともに今も私の内では武家屋敷の代表的なイメージを構成している。
 さて、梵字の小石群の埋設の理由である。Kさんによると、つまり殺された女中が亡霊となって西郷家に祟った。それを鎮めるために件の梵字の石の数々が埋設されたのであろうというのである。これはつきつめてみるば、Kさんだけの話しであって、別に史料的裏付けや公証性があるわけではない。単なる推測による伝説の範囲を出ないものだ。
 ところが、以上の話とは異る、もうひとつの西郷家に祟った本格的な怨霊の話がある。


西郷家長屋門
西郷家長屋門
(昭和30年代後半 筆著撮影)