前後截断録 第29回
あこがれの名物看板
―時代屋・水島義二さんを偲ぶ―
私がその人の店の看板をみて実に羨んだのは中学校二年か三年の冬であるから半世紀前のことである。母につれられて京都の南座の顔見世をみた。歌舞伎なるものの初見である。演目は殆ど忘れたが、今でもその時の主な役者の名は覚えている。市川寿海(雷蔵の養父)、のちに猿翁となった猿之助、先代仁左衛門、もう既に故人となった若き実川延若、中でも猿之助の「黒塚」は年経りた妖怪のおそろしさが直かに感じられてこわかった。それぞれが一部分の情景でも鮮やかに残影があるのは南座(こや)の匂い、役者の現実離れした衣裳や所作に余りにも鮮烈な印象を受けたからであろう。
芝居がはねたあと、四条通りを八坂の方へ、円山公園へ行った筈である。途中、古びた兜を板額にくくりつけているのが眼に入った。そこが古道具屋であることに気付いたのは、看板の下に立ってそこにあがっている兜を十分に眺めてからのことである。
兜は三つも、それも真物(その当時、ホンモノと写しのニセモノの違いがわかったか否か、今では判然しないが・・・)ばかり並んでいる。頂辺のへこんだ変り形の頭形兜、細かい星を一杯にうった星兜、そして阿古陀の鉢、いずれも戦国時代―当時はその程度の認識はあった―はありそうな威厳に満ちた風貌をしている。(その下に木刀が二本架けられてあることを知ったのはずっと後である)
―千年の都は看板からしてちがう!
中仙道の未だ十分に舗装されていない悪路をバスに揺られながら、歌舞伎と古兜―、この二つの時代の全く異なる造形の迫力に興奮して家に着くまで疲れをしらなかった。

京都に仕事の縁が出来てから、もう無数にこの看板の下を通った筈だが、当然ながらいつも通行の目的が別であったから事挙げて記すほどのできごとはない。通るたびに注目し、この看板に気付いてから幾年経ったのか回顧したり、同行者のある時は飽きずに説明したりしたことはたしかである。しかし、前述の通りそこが古道具屋さんでそれもどうやら古武具商であろうということ位は看板から想像されたが、店に入ることはなかった。入っても何が買える訳もなし。所詮素見(ひやかし)になることはわかっている。それより女の子と「同行二人」の方に多忙であった年頃である。
はじめてこの店に入ったのはいつの時か、もとより正確な記憶は欠けているが、仕事の傍ら安物の鎧や面頬など買いはじめたあたりだから二十一~二の頃か。
思い切って店をのぞいたら、中から中背、やや細身の主人が出てきた。これが後に知る時代屋水島義二氏との初会である。その時は武具としてみられてるものは古ぼけた鉄鐙がたしかひとつあった程度である。ヨロイカブトの片鱗もなく、少しがっかりしたが、先方さんはフトコロの寒さまる見えの、ただ背丈だけ一人前に高い、およそ客とはみえぬ小僧だからもっとがっかりした筈である。
ところが主人の水島さんはニコニコして「まあ、お坐りお坐り」。奥からおかみさんも出てきて丁寧極まる応接。番茶一杯飲むのが精一杯で恐縮して早々に失礼した。何を喋ったか覚えていない。それからその看板の下を私を含め無量の人が往来し、白川の橋の下を多くの水が流れた。
~・~・~・・~・~・~・~・~
ある時の記憶が鮮明にある。私は時代屋さんの看板を売らないかと言いに行ったのである。はじめ訪問した時から一、二度位訪ねたあとと思う。
歳月はすぎている。あつかましくも、なぜ買いにゆく気をおこさせたかというと、看板に通じるものを店に置いていないことがわかったからである。それと二回目ではないということは時代屋さんが私のことを覚えていてくれたからである。
「いつぞやも来はりましたナア」
この年頃はそのコトバの次に答えるべき正しい挨拶ができない。
表の看板、雨風曝しで勿体ない。揚げた看板と店の商品とがちがいすぎる。まさか羊頭狗肉とはいえないが、雨風曝しでは看板にくくりつけられている兜たちが可哀想だぐらいは遠廻しにいったかも知れない。
「―頒けてもらえまへんやろか」
つまるところ最後にはどうやら趣旨はいえたような気がする。
今から考えれば常識外の随分失敬な申し出である。若さに任せた気負いの槍付けといえば一人前に聞こえるが、思い返しても冷汗ものである。
時代屋さんはたしか少しひるんだようだった。余りに唐突に非常識な要望を吐く若僧に虚をつかれた。そのようにその頃の私には見えた。ふつうの商人なら、大事な看板を半分冗談にもせよ売れなどといわれたら主人は腹を立てて追い出す筈である。ところが一呼吸のあと、
「―私はまだ商売してますさかい、売れませんのや」
ごくゆっくりとした返事が返ってきた。にこにこして柔和な表情は崩していない。
「ま、何もありまへんけど、一服どうぞ」
お茶を淹れてくれた。何という阿保に対する心遣いか考えれば恐ろしいほどの対応である。
~・~・~・・~・~・~・~・~
時代屋さんの曰く。
今でこそウチは武具やってまへんけど、ウチは祖父(じい)さんの代からヨロイカブト専門の商売しとりましたんや。ちょっとした修理もやってましてナ。祖父や父にそれを手伝わされましたが、イヤで、イヤでね。第一ね、あの面頬、鼻にも毛がついて歯を剥いたやつ。あれがこわくて嫌いで、子供心にこんなもん絶対なぶらんとこと思いました。そやさかいに店にはありまへんやろ。でもネ、ウチからはあとで有名になったもんたくさん出てますんやデ。一番出世したのが、今アメリカのメトロポリタンとかいう美術館へ行ってる鎧です・・・色々珍しいヨロイを扱ったもんです。
アノ有名な岡倉天心やねエ、フェノロッサ(たしかロッサと発音した)、ヨロイの研究家やった関保之助、山上ナントカいう人も、そして歴史絵の画家で有名な人ら、みなアノ看板の下くぐってきましたんやデ。古い胴丸は腹巻よりずっと数が少ないそうなけど、越前の朝倉家ゆうてましたな、木瓜紋付きのいいのも印象にのこってます。

黒韋威胴丸 ー朝倉家伝来ー
時代屋取扱古甲のひとつ。関保之助(有職故実研究家)、小堀鞆音(日本画家)と伝わったが、戦後行方を失い近年発見された。
(右は古目録写真、左は現況)
メトロポリタン云々の件は同博物館の蔵品で、現在日本古美術の白眉とされる白糸妻取威の大鎧のことである。時代屋さんの祖父の代に扱ったものの最高位の品である。もとは丹後亀岡篠村八幡の宝物であったが、この時期はそこから出て個人の所蔵品となっていた。これを時代屋さんが出してきて、店においておいたら、かの天心岡倉覚三が目につけて欲しがったけれども、いかんせん、値が合わぬ。その他、当時蒐集研究を自認する猛者達が挙(こぞ)って挑んだが、結局、外国へ行ってしまった。買付けたのがアメリカの動物学者バシュフォード・ディーン。のちにメトロポリタンの初代東洋部長となる人物で、当時としては世界一の目利きというべき人である。一万円であったという。現代なら一億二、三千万あたりだろうが、明治末葉の一万円という数字はもっと価値のある金額だったろう。因みに岡倉もフェノロサもボストン美術館の東洋部長に任じた俊秀である。共に黎明期の日本古文化紹介に大きな力をいたした人物である。画家は小堀鞆音や松岡映丘、五姓田芳柳・・・。
余りに遥かな、大きな話で、ただ合槌をうって項垂れるしかなかった。
「―そやよって、私は不肖の息子、孫ちゅうことになります。ヨロイカブト嫌いやさかい」
~・~・~・・~・~・~・~・~
それからまた大分の刻がすぎた。
その次に会ったのは古美術のオークション会場であるから十年は隔っていた筈である。私は法律関係の書士業をする傍ら趣味で甲冑類や古文書類を扱うようになっていた。
古物の競り場における時代屋さんは常に静かであるか、年に似合わずその風姿には清潔感があった。
別に男振りとか所作がよかったというのではない。とにかく爽やかであった。時代屋さんの主に扱うものは古い灯明器類である。行灯も鼠がよじ登っている凝った意匠のものや、いかなる状態でも灯が消えない球形の万能灯火器など・・・。こんなものが出ると時代屋さんは滅法強かった。眉ひとつ動かさずどんどん競っていってまず大低は敗けない。口唇にはいつも笑みがあって、ここのところが一般の古物業者には真似のできるところではなかった。
それから特別といっての交流はないが亡くなる七~八年位前にあるオークションの特別会での弁当の時、思いがけず、横に来て
「―よろしいか」
食を共にしたことがある。
「―まだ商売してますさかい、看板売れませんけど」
例によって静かな優しい笑みを口許にたたえながらのユーモアである。
「あんたの武具好きもホンモノですな・・・」
時代屋水島さんは語らずともこちらに視線をむけ、あの看板のむかしばなしを覚えていたのである。
「―あの看板はいつまでも時代屋さんとこにあるべきですよっテ」
もう諦めてます。その節は失礼しました…心中さらに呟いて私は微笑みをかえした。
水島さんが亡くなってとうに一昔こえてしまった。
一寸見ないなと思っている内に逝ってしまった。死に方まで呆気ないほどの爽やかさであった。かつては憧れの武具の象徴として常に心の中にあった「時代屋の看板」はいま、私のところにいる。手に入れることはとうに諦めていたのに、そして探し求めていたわけでもないのに私のところへ来た。古兜を贅沢に三つもくくりつけた看板はいまや私の所の美術館の看板的存在となって既に久しい。ここにあるのが殆ど当り前のような顔をしている。妙であり不思議な話だ。
切れぬ縁(えにし)というものは、ひととものに分つことなく、やはり確実にあるのかも知れない。

時代屋旧蔵の名品類
「井伊達夫 武具写真コレクションより」
―時代屋・水島義二さんを偲ぶ―
私がその人の店の看板をみて実に羨んだのは中学校二年か三年の冬であるから半世紀前のことである。母につれられて京都の南座の顔見世をみた。歌舞伎なるものの初見である。演目は殆ど忘れたが、今でもその時の主な役者の名は覚えている。市川寿海(雷蔵の養父)、のちに猿翁となった猿之助、先代仁左衛門、もう既に故人となった若き実川延若、中でも猿之助の「黒塚」は年経りた妖怪のおそろしさが直かに感じられてこわかった。それぞれが一部分の情景でも鮮やかに残影があるのは南座(こや)の匂い、役者の現実離れした衣裳や所作に余りにも鮮烈な印象を受けたからであろう。
芝居がはねたあと、四条通りを八坂の方へ、円山公園へ行った筈である。途中、古びた兜を板額にくくりつけているのが眼に入った。そこが古道具屋であることに気付いたのは、看板の下に立ってそこにあがっている兜を十分に眺めてからのことである。
兜は三つも、それも真物(その当時、ホンモノと写しのニセモノの違いがわかったか否か、今では判然しないが・・・)ばかり並んでいる。頂辺のへこんだ変り形の頭形兜、細かい星を一杯にうった星兜、そして阿古陀の鉢、いずれも戦国時代―当時はその程度の認識はあった―はありそうな威厳に満ちた風貌をしている。(その下に木刀が二本架けられてあることを知ったのはずっと後である)
―千年の都は看板からしてちがう!
中仙道の未だ十分に舗装されていない悪路をバスに揺られながら、歌舞伎と古兜―、この二つの時代の全く異なる造形の迫力に興奮して家に着くまで疲れをしらなかった。

京都に仕事の縁が出来てから、もう無数にこの看板の下を通った筈だが、当然ながらいつも通行の目的が別であったから事挙げて記すほどのできごとはない。通るたびに注目し、この看板に気付いてから幾年経ったのか回顧したり、同行者のある時は飽きずに説明したりしたことはたしかである。しかし、前述の通りそこが古道具屋さんでそれもどうやら古武具商であろうということ位は看板から想像されたが、店に入ることはなかった。入っても何が買える訳もなし。所詮素見(ひやかし)になることはわかっている。それより女の子と「同行二人」の方に多忙であった年頃である。
はじめてこの店に入ったのはいつの時か、もとより正確な記憶は欠けているが、仕事の傍ら安物の鎧や面頬など買いはじめたあたりだから二十一~二の頃か。
思い切って店をのぞいたら、中から中背、やや細身の主人が出てきた。これが後に知る時代屋水島義二氏との初会である。その時は武具としてみられてるものは古ぼけた鉄鐙がたしかひとつあった程度である。ヨロイカブトの片鱗もなく、少しがっかりしたが、先方さんはフトコロの寒さまる見えの、ただ背丈だけ一人前に高い、およそ客とはみえぬ小僧だからもっとがっかりした筈である。
ところが主人の水島さんはニコニコして「まあ、お坐りお坐り」。奥からおかみさんも出てきて丁寧極まる応接。番茶一杯飲むのが精一杯で恐縮して早々に失礼した。何を喋ったか覚えていない。それからその看板の下を私を含め無量の人が往来し、白川の橋の下を多くの水が流れた。
ある時の記憶が鮮明にある。私は時代屋さんの看板を売らないかと言いに行ったのである。はじめ訪問した時から一、二度位訪ねたあとと思う。
歳月はすぎている。あつかましくも、なぜ買いにゆく気をおこさせたかというと、看板に通じるものを店に置いていないことがわかったからである。それと二回目ではないということは時代屋さんが私のことを覚えていてくれたからである。
「いつぞやも来はりましたナア」
この年頃はそのコトバの次に答えるべき正しい挨拶ができない。
表の看板、雨風曝しで勿体ない。揚げた看板と店の商品とがちがいすぎる。まさか羊頭狗肉とはいえないが、雨風曝しでは看板にくくりつけられている兜たちが可哀想だぐらいは遠廻しにいったかも知れない。
「―頒けてもらえまへんやろか」
つまるところ最後にはどうやら趣旨はいえたような気がする。
今から考えれば常識外の随分失敬な申し出である。若さに任せた気負いの槍付けといえば一人前に聞こえるが、思い返しても冷汗ものである。
時代屋さんはたしか少しひるんだようだった。余りに唐突に非常識な要望を吐く若僧に虚をつかれた。そのようにその頃の私には見えた。ふつうの商人なら、大事な看板を半分冗談にもせよ売れなどといわれたら主人は腹を立てて追い出す筈である。ところが一呼吸のあと、
「―私はまだ商売してますさかい、売れませんのや」
ごくゆっくりとした返事が返ってきた。にこにこして柔和な表情は崩していない。
「ま、何もありまへんけど、一服どうぞ」
お茶を淹れてくれた。何という阿保に対する心遣いか考えれば恐ろしいほどの対応である。
時代屋さんの曰く。
今でこそウチは武具やってまへんけど、ウチは祖父(じい)さんの代からヨロイカブト専門の商売しとりましたんや。ちょっとした修理もやってましてナ。祖父や父にそれを手伝わされましたが、イヤで、イヤでね。第一ね、あの面頬、鼻にも毛がついて歯を剥いたやつ。あれがこわくて嫌いで、子供心にこんなもん絶対なぶらんとこと思いました。そやさかいに店にはありまへんやろ。でもネ、ウチからはあとで有名になったもんたくさん出てますんやデ。一番出世したのが、今アメリカのメトロポリタンとかいう美術館へ行ってる鎧です・・・色々珍しいヨロイを扱ったもんです。
アノ有名な岡倉天心やねエ、フェノロッサ(たしかロッサと発音した)、ヨロイの研究家やった関保之助、山上ナントカいう人も、そして歴史絵の画家で有名な人ら、みなアノ看板の下くぐってきましたんやデ。古い胴丸は腹巻よりずっと数が少ないそうなけど、越前の朝倉家ゆうてましたな、木瓜紋付きのいいのも印象にのこってます。


時代屋取扱古甲のひとつ。関保之助(有職故実研究家)、小堀鞆音(日本画家)と伝わったが、戦後行方を失い近年発見された。
(右は古目録写真、左は現況)
メトロポリタン云々の件は同博物館の蔵品で、現在日本古美術の白眉とされる白糸妻取威の大鎧のことである。時代屋さんの祖父の代に扱ったものの最高位の品である。もとは丹後亀岡篠村八幡の宝物であったが、この時期はそこから出て個人の所蔵品となっていた。これを時代屋さんが出してきて、店においておいたら、かの天心岡倉覚三が目につけて欲しがったけれども、いかんせん、値が合わぬ。その他、当時蒐集研究を自認する猛者達が挙(こぞ)って挑んだが、結局、外国へ行ってしまった。買付けたのがアメリカの動物学者バシュフォード・ディーン。のちにメトロポリタンの初代東洋部長となる人物で、当時としては世界一の目利きというべき人である。一万円であったという。現代なら一億二、三千万あたりだろうが、明治末葉の一万円という数字はもっと価値のある金額だったろう。因みに岡倉もフェノロサもボストン美術館の東洋部長に任じた俊秀である。共に黎明期の日本古文化紹介に大きな力をいたした人物である。画家は小堀鞆音や松岡映丘、五姓田芳柳・・・。
余りに遥かな、大きな話で、ただ合槌をうって項垂れるしかなかった。
「―そやよって、私は不肖の息子、孫ちゅうことになります。ヨロイカブト嫌いやさかい」
それからまた大分の刻がすぎた。
その次に会ったのは古美術のオークション会場であるから十年は隔っていた筈である。私は法律関係の書士業をする傍ら趣味で甲冑類や古文書類を扱うようになっていた。
古物の競り場における時代屋さんは常に静かであるか、年に似合わずその風姿には清潔感があった。
別に男振りとか所作がよかったというのではない。とにかく爽やかであった。時代屋さんの主に扱うものは古い灯明器類である。行灯も鼠がよじ登っている凝った意匠のものや、いかなる状態でも灯が消えない球形の万能灯火器など・・・。こんなものが出ると時代屋さんは滅法強かった。眉ひとつ動かさずどんどん競っていってまず大低は敗けない。口唇にはいつも笑みがあって、ここのところが一般の古物業者には真似のできるところではなかった。
それから特別といっての交流はないが亡くなる七~八年位前にあるオークションの特別会での弁当の時、思いがけず、横に来て
「―よろしいか」
食を共にしたことがある。
「―まだ商売してますさかい、看板売れませんけど」
例によって静かな優しい笑みを口許にたたえながらのユーモアである。
「あんたの武具好きもホンモノですな・・・」
時代屋水島さんは語らずともこちらに視線をむけ、あの看板のむかしばなしを覚えていたのである。
「―あの看板はいつまでも時代屋さんとこにあるべきですよっテ」
もう諦めてます。その節は失礼しました…心中さらに呟いて私は微笑みをかえした。
水島さんが亡くなってとうに一昔こえてしまった。
一寸見ないなと思っている内に逝ってしまった。死に方まで呆気ないほどの爽やかさであった。かつては憧れの武具の象徴として常に心の中にあった「時代屋の看板」はいま、私のところにいる。手に入れることはとうに諦めていたのに、そして探し求めていたわけでもないのに私のところへ来た。古兜を贅沢に三つもくくりつけた看板はいまや私の所の美術館の看板的存在となって既に久しい。ここにあるのが殆ど当り前のような顔をしている。妙であり不思議な話だ。
切れぬ縁(えにし)というものは、ひととものに分つことなく、やはり確実にあるのかも知れない。


「井伊達夫 武具写真コレクションより」
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