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前後截断録 第26回

津本陽さん
お別れの会にのぞんで


 数日前、正しくは9月18日 ホテルオークラでの、作家津本陽さんのお別れの会に招かれたので出席してきた。

 私は75年の人生において、殆ど冠婚葬祭には係わらない生き方をしてきた。これはひとえに私の身勝手、わがままによるものである。要するに面倒なのである。かかる場所は慶弔いずれにせよ、その主人公を祝い、あるいは弔って、そこから更にその主人公を介して、人々のつき合いの輪を広げ、お互いに世間を広くしてゆこうという荘厳な古典的コミュニティの場である。

 それぞれの職種、階層の人々が、互いに関係ある人々と集まって飲み喰いして語りあう。当然ながらそこは自由にみえても序列があり、しばりがある。これが苦手なのだ。私と同じような思いをもって、同感する人も少なくないと思う。
 しかし今回は参加させてもらうことにした。滅多に遠出しない居坐りものが、しかも東京まで出向かなければならないのに・・・。深い理由はない。主人公の津本さんに文字通り最後のおわかれをしようと、ーフッと思ったから。

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 津本さんのことは、前にすでに書いた。つき合いとしては短かったかも知れないが、決して表面上だけではない。深いものがあったような気がする。遺影を拝し、遺品をみて、愛用の木刀の前まで来たとき、何か急にこみあげるものがあった。
 私は人に涙をみせない。「男涙」など、嫌いである。他人の男が泣くのは勝手だが、主体としての自分が他者の前で泣くのはいやだ。ふりかえってみれば、30年以上むかし母が死んだとき、8年前愛犬のガリアが死んだとき、涙が出たのは二回だけだ。勿論人のいないところで・・・。
 こんなことは自慢にもならぬが、津本さんのときは、これに近い症状になった。自分で情けない奴だナと思った。みように自分が自分に愧しい。

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 黙祷、弔辞、と式が進んで角川歴彦氏(株式会社KADOKAWA取締役会長)の献杯が終ると、会場が動き出した。みんなが(多分出版社関係の人々であろう)名刺をもって、右往左往しはじめた。
 私は名刺配りをする必要がないので、手持無沙汰である。発起人の林真理子氏と二木謙一氏、このお二方と井伊直虎や大老直弼のはなしを少しした程度で会場をあとにした。
 そういえば献花して津本さんの奥様に本当に残念ですと申し上げたとき、かねがね主人からお話をよく承っておりましたと挨拶された。津本さんは私とのどんな話を奥様にされたのだろうか、と思った。

 くるまにのってウインドウをあけたら、虎の門のホテルの坂道から乾いた風が吹き上がってきた。
こういう用事で再び東京へ来ることはもうないだろうー斜陽の射す江城の濠水をみるともなく眺めながら、そんなことを考えた。


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前後截断録 第25回

江戸の大風呂敷
(井伊家桜田小納戸方所用)


俗に「大風呂敷を広げる」という人口に膾炙したたとえがある。
つまりは根蔕のないあるいは大したことがないことがらを大袈裟に誇大していうことをさす。
一方、現実に実際的用途のための大風呂敷がある。
これは誰でも知っている事だがサイズ的には四幅(128cm四方)物からを大風呂敷というらしい。紹介の大風呂敷はおよそ五幅(180cm四方)にちかい実に堂々たるもので、井伊家江戸桜田の上屋敷の小納戸方で用いられたものである。
おそらく他藩で用いられた江戸時代の大風呂敷の現存品などは本品の他にないのであろう。
この品がどうしてこちらに残されたのかは今となっては探索の術がないが、このような江戸歴史の証人は、我が美術館の片隅のいろんなところにある。彼らは存在を主張しない。年老いて忘れられたようにいる。そしていつの間にかどこかへ移動させられ、埃にまみれひっそりとある。

さて、この風呂敷は元気な頃どんな扱いを受けていたのだろう。
正式には国許彦根ではなく井伊家江戸邸、それも桜田とあるから上屋敷本邸の小納戸において専用されたものである。
「納戸」というのはふつう物品を蔵置、管理する屋邸中の部屋、あるいはそれらを大きく包蔵する家屋をいう。納戸方はその収蔵品の取扱管理に任ずる役職であるが、大納戸、小納戸とふたつに区分される。
一般的には大納戸という役職名は使わず、ただ納戸役と書くが(水戸藩には大納戸があり甲冑や武装衣裳等はこの役名において管理された)これに対するものが小納戸役であった。
井伊家の場合殿様専任の小納戸役から、ただの「小納戸」までいろいろクラスがあるが、この風呂敷はその「ただ」の方の役係りが用いた。
小納戸役は被服や調度類の管理が仕事の主体であるが、ただの小納戸といっても殿様の縁族の小納戸品も所轄したから、役方としては卑職ではない。禄高としては2百ないし4百石級の武役席の侍がこれに任じた。
時には井伊一族の手許金をも預託されていたから重要な職責にあったわけだ。
しかし、いったいどんなものをどれだけ運び入れ、運び出したのか。
この風呂敷はその大きい容敷の中に大獄の立役者、三人衆ともいうべき長野主膳、宇津木六之丞、そして大老直弼・・・・かれらの跫音をいまだ秘め包んでいるようにわたしには思える。
そして万延元年三月三日雪の朝の凶刻の恐怖のざわめきも・・・・
25_0903