前後截断録 第19回
続・清凉寺へ

佐和山城古図
石田三成の一の家老であった島左近(清興・勝猛)の屋敷跡がこの清凉寺であるという。堂前にタブの老樹があり、伝説では左近遺愛という。佐和山城図屏風にも島左近屋敷の旨が書かれてある。
清凉寺には七不思議なる伝説がある。それにはこのタブの木がしばしば娘の姿に変化したという。「木娘」といわれ一種修行僧たちの間で畏怖されたが、清拙和尚に封じられ以来出なくなったという。清拙の名は地元彦根の宮田思洋という郷土史家であった人の「伝説の彦根」という冊子にでてくるが真否は知らない。島左近の遺愛の木は本堂の右側にかつて堂々と控えていた大きな南天であったともいう。この南天の大樹は太平洋戰爭中に折られてしまったが、触れば腹痛をおこすと伝承されていた。因にのこりの五不思議を紹介しておくと、壁の月、唸る門、晒し井戸、血の池、黒雲の怪等であるが、伝説の典型のようなもので、煩わしいから略す。
私の庭であると前にいった意味は、佐和山の城あとへの往き還りに、清凉寺の背後の山道を「我が一人の道」と専重したからである。寺のうしろは直接佐和山に接し、そこには山腹にむけて、同寺檀家であった古き人々の墓が数多く山の斜面を占有している。
この山腹の小径で大きな蛇の枯葉の下をゆくのをみたはなしは『ほんものの井伊直虎ーホントの本当』の中で書いた。文字通り典型的な蛇行であった。蛇行してみちを横切ると急斜面を落ちるように下へ消えた。下は崖になっていてそのまま清凉寺の庫裡裏に落ちこんでいる。こんなに山ぎわが寺に逼っていると危ないなと思ったことは、蛇の逃げる姿をみる以前から再々であった。
去夏、龍潭寺さん訪問とは別の日に、清凉寺さんを訪れた(8月31日)。れいによって当日突然の訪問であったが、御住職の母堂が応対して下さった。住職さんは不在で私の知っていた頃の住職さんからは三代あと、つまりお孫さんに当る。先代はたしか母校彦根東高校の一年先輩であったかと思う。残念ながら既に亡くなられて歳月が過ぎている。まさに無常迅速である。以下はそのときのお母さんとの会話を地の文に直したものである。
————
中高生時代、ここには同級生がいた。
ちょっと説明がいるが、大戦後の混乱で住まいを失ったり、生活に不自由を来している人々に、当時の住職さんは寺内の一部をこれらの人々に提供されていたのである。同級生というのは部屋借りをしている父兄の子であった。
そのころの清凉寺は現在のように伽藍が整備されていなかった。元来が彦根藩上級士族を檀家の中心とした侍寺であったから、幕藩体制の崩壊と共に衰微し、由緒ある建物の修繕も思うに任せない状態であった。門前左右に高い松が何本かあり、その先は今のJR東海道線の盛土をした線路で遮ぎられていたが、その辺りから、門前墓地の間にかけてよくチャンバラごっこをした。春夏秋冬、北の琵琶湖の方から風が吹き、その風は梅の薫り、桜の花びら、彦根球場の高校野球予選の声援、そして松籟愁殺の孤独の響き、季節とりどり、さまざまな風姿を伝えてくれた。
—————-
現在、同寺は修理と再建はみごとになされている。これは先代の住職さんはじめ檀家の人々その他関係者の祈るような願いが行動となって果された結果であろう。とくに先代にとっては禅者としての第一義であり果たすべき悲願であったにちがいない。それはおのが命を削るような辛苦を伴ったのではないかと思われる。山崖が崩れて建物を直撃したことも、現状放置不能を促せた大きな原因であった。それはそのかみ、佐和山城趾を往き還りする少年の危惧が単なる取り越し苦労でなかったことことを実証した。
御住職の母君には突然の訪問で御迷惑をおかけしたにも関わらず懇切丁寧な応接をいただき、まことに感謝したことであった。たしかに清凉寺は聊か大袈裟にいえば威風辺りを払う威容となったが、私にはむかしの歴史をそのまま背負って時代疲れのした姿の方が懐しく思い直された。

彦根井伊家歴代位牌への礼拝

佐和山城古図
石田三成の一の家老であった島左近(清興・勝猛)の屋敷跡がこの清凉寺であるという。堂前にタブの老樹があり、伝説では左近遺愛という。佐和山城図屏風にも島左近屋敷の旨が書かれてある。
清凉寺には七不思議なる伝説がある。それにはこのタブの木がしばしば娘の姿に変化したという。「木娘」といわれ一種修行僧たちの間で畏怖されたが、清拙和尚に封じられ以来出なくなったという。清拙の名は地元彦根の宮田思洋という郷土史家であった人の「伝説の彦根」という冊子にでてくるが真否は知らない。島左近の遺愛の木は本堂の右側にかつて堂々と控えていた大きな南天であったともいう。この南天の大樹は太平洋戰爭中に折られてしまったが、触れば腹痛をおこすと伝承されていた。因にのこりの五不思議を紹介しておくと、壁の月、唸る門、晒し井戸、血の池、黒雲の怪等であるが、伝説の典型のようなもので、煩わしいから略す。
私の庭であると前にいった意味は、佐和山の城あとへの往き還りに、清凉寺の背後の山道を「我が一人の道」と専重したからである。寺のうしろは直接佐和山に接し、そこには山腹にむけて、同寺檀家であった古き人々の墓が数多く山の斜面を占有している。
この山腹の小径で大きな蛇の枯葉の下をゆくのをみたはなしは『ほんものの井伊直虎ーホントの本当』の中で書いた。文字通り典型的な蛇行であった。蛇行してみちを横切ると急斜面を落ちるように下へ消えた。下は崖になっていてそのまま清凉寺の庫裡裏に落ちこんでいる。こんなに山ぎわが寺に逼っていると危ないなと思ったことは、蛇の逃げる姿をみる以前から再々であった。
去夏、龍潭寺さん訪問とは別の日に、清凉寺さんを訪れた(8月31日)。れいによって当日突然の訪問であったが、御住職の母堂が応対して下さった。住職さんは不在で私の知っていた頃の住職さんからは三代あと、つまりお孫さんに当る。先代はたしか母校彦根東高校の一年先輩であったかと思う。残念ながら既に亡くなられて歳月が過ぎている。まさに無常迅速である。以下はそのときのお母さんとの会話を地の文に直したものである。
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中高生時代、ここには同級生がいた。
ちょっと説明がいるが、大戦後の混乱で住まいを失ったり、生活に不自由を来している人々に、当時の住職さんは寺内の一部をこれらの人々に提供されていたのである。同級生というのは部屋借りをしている父兄の子であった。
そのころの清凉寺は現在のように伽藍が整備されていなかった。元来が彦根藩上級士族を檀家の中心とした侍寺であったから、幕藩体制の崩壊と共に衰微し、由緒ある建物の修繕も思うに任せない状態であった。門前左右に高い松が何本かあり、その先は今のJR東海道線の盛土をした線路で遮ぎられていたが、その辺りから、門前墓地の間にかけてよくチャンバラごっこをした。春夏秋冬、北の琵琶湖の方から風が吹き、その風は梅の薫り、桜の花びら、彦根球場の高校野球予選の声援、そして松籟愁殺の孤独の響き、季節とりどり、さまざまな風姿を伝えてくれた。
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現在、同寺は修理と再建はみごとになされている。これは先代の住職さんはじめ檀家の人々その他関係者の祈るような願いが行動となって果された結果であろう。とくに先代にとっては禅者としての第一義であり果たすべき悲願であったにちがいない。それはおのが命を削るような辛苦を伴ったのではないかと思われる。山崖が崩れて建物を直撃したことも、現状放置不能を促せた大きな原因であった。それはそのかみ、佐和山城趾を往き還りする少年の危惧が単なる取り越し苦労でなかったことことを実証した。
御住職の母君には突然の訪問で御迷惑をおかけしたにも関わらず懇切丁寧な応接をいただき、まことに感謝したことであった。たしかに清凉寺は聊か大袈裟にいえば威風辺りを払う威容となったが、私にはむかしの歴史をそのまま背負って時代疲れのした姿の方が懐しく思い直された。

彦根井伊家歴代位牌への礼拝
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