前後截断録 第12回
とくべつな里帰り②
――佐和山周辺・むかし語り⑵

江州佐和山城之図屏風(彦根井伊家旧蔵 大久保章彦管理―旧井伊家家扶)
旧びわ湖の内湖、指合(さしあい)といわれた方面からみた佐和山城(六曲半双―部分)。搦手側、「一本松」や「石ヶ崎」、「島左近屋敷」などの名がみえる。

大洞一本松の辺り(現・経堂)
この龍潭寺はもちろん、清凉寺や井伊神社の界隈、大洞(おおほら)の辺り迄石田三成時代は佐和山城域であった。井伊藩政期の江戸に時代が変っても、彦根城を押える要所であったことに変りはない。たとえば、登頂した人々には瞭然のことであるが、佐和山城本丸址からは、彦根城の本丸や、他の要部が丸見えである。
彦根城を攻める場合、城南の平田山に押えをおき、佐和山に陣取れば彦根は動けなくなる。実は彦根城は要害的には弱かったのであった。そのため、江戸前期、佐和山周辺は他所者立入禁止であった。
ここに寺を建てたのも、大洞山に弁天さんを祀ったのも、大衆を集めることによって周囲を賑やかにさせ、外敵の戦策謀議をできないようにするためであった。
江戸中期頃は彦根の名所になって、戦国悲劇の場所は一種、花街のような観を呈した。藩の軍事的目論見は十分に成功したのである。
在国中の殿様は、本丸の天守の東にある着見櫓(月見櫓は後称)から大洞、龍潭寺辺りを時折り遠眼鏡で眺め、庶民の娯しんでいる様子をみて心を和ませたという。たしか井伊直定であったか、望遠鏡をみていると、大洞の茶店で泥酔し、内湖の船中で狼藉の限りをつくしている藩士数人をみつけた。
直定は近恃の士たちの人物を量るため数人に遠眼鏡を貸し与え、それとなく感想を聞いた。大抵の士は遊宴の当人たちに咎めが及ぶのを配慮して、ただ景色のみを語ったが、一人加田某(桜田の変で即死した加田九郎太の先祖)が、あの船中で不届きなることをしておるのは右が誰々、左が誰々と得意げに語り上げた。
直定はこれを聞いて聞かぬふりをしていたが、のち近恃の者に「あのようなる者は大名の傍には置きがたき奴じゃ」といったという。
大洞弁天の下、一本松という所は佐和山落城の時、石田の勇豪の士福島次郎作が寄手の田中吉政軍を対手に奮戦の末立ち腹を切った所で、往年大きな松の木が一本だけ聳えていたところからこの名が生まれた。井伊家士の古い覚書をみていたら、この一本松は信長の将平手長門守の墓であるという。平手は信長に叛意を抱き、それが露顕してここで手討にされたという。この覚書はその他の記録に鑑みてもかなり信憑性が高いから、おそらく事実であろう。信長安土築城以前征戦途次、佐和山城駐在の頃のことである。いずれにしてもこの界隈は到るところ血にまみれている。里帰りをしたら、必ずここを訪れ、井伊神社の石の階(きざはし)に腰を落して往古をふり返り、風の音をきく。文句のない贅沢、珠玉の一刻。――
――佐和山周辺・むかし語り⑵

江州佐和山城之図屏風(彦根井伊家旧蔵 大久保章彦管理―旧井伊家家扶)
旧びわ湖の内湖、指合(さしあい)といわれた方面からみた佐和山城(六曲半双―部分)。搦手側、「一本松」や「石ヶ崎」、「島左近屋敷」などの名がみえる。

大洞一本松の辺り(現・経堂)
この龍潭寺はもちろん、清凉寺や井伊神社の界隈、大洞(おおほら)の辺り迄石田三成時代は佐和山城域であった。井伊藩政期の江戸に時代が変っても、彦根城を押える要所であったことに変りはない。たとえば、登頂した人々には瞭然のことであるが、佐和山城本丸址からは、彦根城の本丸や、他の要部が丸見えである。
彦根城を攻める場合、城南の平田山に押えをおき、佐和山に陣取れば彦根は動けなくなる。実は彦根城は要害的には弱かったのであった。そのため、江戸前期、佐和山周辺は他所者立入禁止であった。
ここに寺を建てたのも、大洞山に弁天さんを祀ったのも、大衆を集めることによって周囲を賑やかにさせ、外敵の戦策謀議をできないようにするためであった。
江戸中期頃は彦根の名所になって、戦国悲劇の場所は一種、花街のような観を呈した。藩の軍事的目論見は十分に成功したのである。
在国中の殿様は、本丸の天守の東にある着見櫓(月見櫓は後称)から大洞、龍潭寺辺りを時折り遠眼鏡で眺め、庶民の娯しんでいる様子をみて心を和ませたという。たしか井伊直定であったか、望遠鏡をみていると、大洞の茶店で泥酔し、内湖の船中で狼藉の限りをつくしている藩士数人をみつけた。
直定は近恃の士たちの人物を量るため数人に遠眼鏡を貸し与え、それとなく感想を聞いた。大抵の士は遊宴の当人たちに咎めが及ぶのを配慮して、ただ景色のみを語ったが、一人加田某(桜田の変で即死した加田九郎太の先祖)が、あの船中で不届きなることをしておるのは右が誰々、左が誰々と得意げに語り上げた。
直定はこれを聞いて聞かぬふりをしていたが、のち近恃の者に「あのようなる者は大名の傍には置きがたき奴じゃ」といったという。
大洞弁天の下、一本松という所は佐和山落城の時、石田の勇豪の士福島次郎作が寄手の田中吉政軍を対手に奮戦の末立ち腹を切った所で、往年大きな松の木が一本だけ聳えていたところからこの名が生まれた。井伊家士の古い覚書をみていたら、この一本松は信長の将平手長門守の墓であるという。平手は信長に叛意を抱き、それが露顕してここで手討にされたという。この覚書はその他の記録に鑑みてもかなり信憑性が高いから、おそらく事実であろう。信長安土築城以前征戦途次、佐和山城駐在の頃のことである。いずれにしてもこの界隈は到るところ血にまみれている。里帰りをしたら、必ずここを訪れ、井伊神社の石の階(きざはし)に腰を落して往古をふり返り、風の音をきく。文句のない贅沢、珠玉の一刻。――
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