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前後截断録 第9回

素晴らしき古文書鑑定―次郎物語の研究
―若手学者さん頼りにしてまっせ―


若き日の彦根市史編纂
みんな若かった!!
新修彦根市史編纂がはじまり井伊家史料採集のため来訪された関係者の方々。
(左より母利(京都女子大学助教授)、藤井(京都大学教授)、羽中田(市史編纂室―現井伊直岳)の各氏。-1999年肩書は当時による。


○近頃は歴史ブーム、戦国ブームとかで、TVや雑誌が賑っている。それはそれで結構なはなしであるが、ブームの陰で訳がわかっているのか、いないのか、どうにもおはなしにならない人(この中には一般からみれば専門家とされている人も含まれている)が活躍しているのは困ったものである。

そんな中にあって、磯田道史氏はまず、「歴史」というものの真偽について考証以前に感覚的にパッと掴める人、古記録、古文書の細微に亘る検証以前に紙と字の雰囲気から時代の空気を鋭く読みとれる稟質に勝れた数少ない学者の一人であると思っている。借りもののはなしをせず、自分のコトバで語り記すことの出来る希有な人であろう。もう一人、大石泰史氏。私はこの人の「井伊氏サバイバル五〇〇年」(星海社新書)というのを知人から知らされ、寸借、みせてもらった。横着の流し読みだったが。詳しいところ井伊家のことゆえ大抵のことはわかる。そして少々驚いた。大石泰史氏はその書中で、結構いいにくいことをはっきりといっている。御都合御用学者、TVうけばかりねらって、いつもどこかに逃げ場所と口上を用意しているような膏薬学者と違って、大石氏はまず信念のある研究者ではないかと思った。


○TVによく出る本郷という先生が「英雄たちの選択」というTV番組で直虎関係の古文書が扱われたことにふれ「次郎法師」の次郎の字と、直虎と花押のある文書の次郎という筆跡を比べてみて、同一人かどうかを調べたことを、「ぼくは正気を疑った」と書いている(〝直虎は生年も違う? 花押無き「次郎法師黒印状」の謎 東大・本郷教授の「歴史キュレーション」″BUSHOO!JAPAN)。

これは学者が一体何という非常識をやっとるンや―という意味の「正気」ということであろう。これは正にそうだろう。私は番組の「英雄たちの選択」というのは耳で聞いて知ってはいたが、くわしくは知らない(これは記憶ちがいで、私はこの番組に、井伊直弼の件で出演したと学芸員に知らされた。年齢(とし)のせいで現世のことはよく忘れる)勿論その直虎の番組はみたことがなかったが、そんな快挙(!?)があったと聞いて「ホンマカイナ!」と叫んだ。

文書の本文内容、差出人の官途、通称、宛名、までは通常祐筆、つまり代筆人が書く。本人は書かない。つまり「次郎法師」と「次郎直虎」の次郎という筆蹟をいくら検討したところで、見当ちがい、文書作法の常識外れだから意味がないのだ。他人が書いとるのだもの。時代の文書の規式約束を知らずに吃驚するようなことをする。結局同人とは思えないナァという結論に達したらしいが、噴飯ものとはまさにこのこと。もし一致してるなどとなったら「あ、やっぱり女だったんだ」というのカナ。


○さて、この番組には素人のゲストさん二人、それに久保田さんという専門家が一人、計三人が出演していたそうであるが、何と、その場の司会、主導的立場にいた人は私がかねて高く買っている磯田道史氏であったという。

私は知らなかったが、磯田さんは古文書のことはあまり得意ではないというはなしを最近ある史学者から直接聞かされた。古文書の字は時代によって大きく変る特に個人の字は万人万様…実に微妙でありそこに独特の味がある。ゆえに古文書を読むのはむつかしい。たとえば幕末史専門といっても、井伊直弼自筆の文書など眼前でスラスラといく人などみたことがない。特に匆忙の中で書いたものなどは難読難解である。専科の学芸員などでも、一度館へ帰ってからゆっくり…などといってその場をしのぎ去る。


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井伊直弼自筆最後の手紙(冒頭部)
安政七年(万延元年)二月二十五日付
彦根藩国老三浦内膳宛

井伊直弼の絶筆とされるもの。直弼自筆の中でもやや難読の部類。



磯田氏の風聞を耳にしたときは少し残念な気がしたが、しかし氏が「歴史」というものを直覚的にわかる人であるという私の評価は変らない。古文書が読めても、歴史の正体が掴めない人はいくらもいる。いやむしろ、そちらの方がいわゆる専門家という人達の中には多い気がするのダ。

磯田氏の司会するその番組には前記したごとく久保田さんという専門家がいたらしいが、この比較次郎物語の一件にはこれといったことを表明しなかったらしい。もしこれが真実だとしたら、この人もわからない人種の一人になろう。その場で、その筆蹟鑑定は意味がないのですよ―とアドバイスして、かくかくしかじか、代筆のはなしをするべきだったろう。

本郷さんが、「正気を疑った」というのはここのところをも含んでいるのだと思われる。しかし、このような歴史番組の進行の序列は本番撮影以前に細部が決定されているから、バラエティのように突然アドリブで異論を差しはさむというようなハプニングはあり得ない。要するに全て決められている中でのことであるから、出演したゲストさん以外は、「次郎」という字の比較が無意味なことを知らなかったのダーというになる。そうでないとおかしいと考えるのは当然ではないか。あの文書の双方とも祐筆手であるから、「次郎」は本人自署の線はない筈であります。TVの演出上、承知でやらされていた―と考えるのにもムリがありそうだし・・・。


○ところでこの本郷先生は二人対談ようなカタチでブログを書いている。いいにくいようなアヤシイところは女の子がいったりして、先生がいろいろ都合よく、面白く答える。左様な調子だから当然逃げ道も上手に用意されている。

この中で、拙者の直虎に係る史料について、二次史料だから、いくらひねくっても真実は出てこないというような意味のはなしをしている。前項の次郎の字比較をしたTV番組の批判はその通りだが、これは「二次史料」という史学上の分類用語を固定観念的に捉えて「二次史料」は所詮二次だから大したことはないと一蹴しているまことに安易な批判である。当HP直虎関係の中でも、今回の発見史料の筆者や背景人物について書いてきたが、二次史料にもピンキリがある。内容を検討してみると、発見史料の記録と同じ原文書の存在も多く確認されている。

本郷さんは勿論井伊家のホントのところについては殆ど御存知ない。その知識は日本史研究者の一般の常識的範囲であることが以上のことで知れる。前記該史料の表面だけしかみていない。みようとしない。イヤ、みることができないから背景や状況証拠をしらべる余裕も方法もない。ゆえにバッサリと「二次史料だから信用できない」と斬り捨てる。そうしておけば面倒がない。井伊家史料のむずかしいところへは踏み込む必要がないから気楽にすむのである。

しかしこの態度は先生にとっては惜しいことだ。しかしTVのバラエティ的歴史番組などで、先生のいっていることは大抵知られた「使用済」が多く、目新しいものは余りないというハナシを聞くがどうだろう。歴史好きの人なら大抵知っていることを、わかりきったようにお話しになっている程度で、切り口に陳腐(ちんぷ)なところも少なくないということらしい。TV出演が多いとどうしても本格的研究の合間がへる。先生の御自愛を祈りたい。しかし、あのお髭はよくお似合いでイイネ。これイヤミでなく。ホント。
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前後截断録 第8回


近頃の甲冑武者の絵は・・・

お蔭様で超多忙な毎日多謝多謝。
われら同年知人は、毎日が日曜日で、時をあかすのに苦しんでいる連中が殆どなのに、ホント、よろこばなければいけない。

しかし、一ツ事に多少詳しくなると、八ツ下りになってきているモノゴトにあきれるようなことも少くない。
たとえば、拙者も史料的に多少協力した某直虎本の武将の切腹の図。その武将は井伊の誰かなのだろうが(もちろん良くわかっているのだけれども敢えてこう書いている)、今まさに腹に短刀をつきさそうとしている。勿論、肌ぬぎになっているのだが、その武者の肩に不思議なことにヨロイの袖がついている。
この袖が、この位置についているということは、どこかに定着させる装置がなければならない筈だが、鎧の胴を脱いでいるから袖は固定できない。つまり肩から落ちてしまう道理である。両籠手を指しているから、その籠手元につけられると解釈しているのであろうか。しかし、そうだとすると、籠手の肩元に当る部分が下へ下っているから、袖のつき様がない。つまり袖の(この場合大袖)はどこにもつき様がなく宙に浮いていることになる。

腹を切るのに胴は脱がなければならないが、袖を籠手につけさせる手間ヒマの面倒をかけてまで腹は切らない。まず物理的にむつかしい。袖はズリ落ちてしまう。
まわりくどいようだが要するにあり得ない。正しくないのだ。

介錯人が切腹人の右斜前に立っている。とんでもない立ち位置である。画の例だと、この介錯人は上手に首を落とすことはできない。かくじつに失敗する。こんな下手をされると殆ど覚悟した筈の武将は苦痛のためその辺りを這いずりまわって醜態を曝すことになる。これは常識だ。つまり切腹人は首の斬られようも知らないというわけだ。介錯人は切腹人の左斜め後に立たなければならぬのである。

最近、歴史ブームで、甲冑着用の武者の姿をよくみるが、まず大抵はよろしくない。体の前の部分はともかく、背部、特に専門用語でいうと「押付―おしつけ」がちゃんと描けていない。胴と草摺と腰帯の関係も空想的である。

小堀鞆音筆井伊直政甲冑像
小堀鞆音筆井伊直政甲冑像(弦廼舎画迹より)

むかしの挿絵画像の絵にはそこに省略があっても、もとがわかってデッサンが利いているから、本筋を外していなかった。近頃の挿画画家は甲冑そのものの構造を知らず、胡魔化しの絵でその場をしのいでいるから、まちがいだらけである。勿論甲冑の構造を知っても、時代による形式の変遷を知らないから、これまた誤りが続く。兜の形式など気の毒なほどにひどい。

もう少し勉強して欲しいと思うのはまさか、拙者ひとりではないと思うのだが如何。