前後截断録 第6回
「ほんものの井伊次郎直虎」その周辺事情
新野左馬助は井伊の身内ではなく、今川の家臣関口氏の出身で、100%今川方の人間である。井伊谷は井伊直盛桶狭間討死後混乱が続き、鎮まらないので、駿府の今川氏真から関口越後守氏経の子が井伊次郎直虎となって派遣された。
井伊直虎の赴任は永禄4~5年のことと思われる、直虎は若かったと記されているから15、6歳から20歳までの年齢であったと推定される。それゆえ陣代としてこれまた関口氏から新野家に養子に入った新野左馬助が直虎の後見となった。
つまりこれで井伊谷の実質支配は新野左馬助に委ねられたわけである。
左馬助は井伊直親とも大変仲が良かったので、この駿府今川の処置に対しては異論がなかった。実は井伊の惣領家の名跡は今川独断による人事だが井伊次郎直虎が形式上嗣いだことになり、井伊直親は傍流に甘んじたわけである。
それゆえ直親は井伊谷には住まず他所に滞留した。祝田村とも伝える。これは井伊直虎に対する遠慮である。現在直虎と誤認されている次郎法師は出家の身分であるから、井伊直盛の家宰であった小野但馬守は何事も彼女に対し綺(いろ)うことはなかったのである。小和田氏がいう次郎法師の家督継続に異論をさしはさまなかったのは不思議だという指摘は、他ならず、次郎法師が井伊家の家督など実際は継いでいなかったからである。出家のまま、「出家」をやっていたのである。地方名家の尼さんとして、やや大袈裟にいえば一族の精神的、宗教的象徴として存在したと思われる。その上にあったのが今川貴族井伊次郎直虎である。
直虎は大分頼りないお坊チャマであった気配である。徳政一件に関して、これの実行を拒んだのは次郎法師から変化した井伊直虎とされているが、これは現在のこされている徳政実行に動いた匂坂直興の書状の中に登場する、井伊次郎の扱われ方と、新発見史料の記す井伊次郎の登場情況を読み合せると、極めて無理のない整合性があって、井伊谷の小野但馬、祝田の祢宜、今川氏真、関口越後守の動きがすんなりと、また生き生きとして蘇ってくる。これまで苦労したが徳政反対者が強く行動しようとしてもこんどは井伊次郎が対手になるから、何の心配もないと書いているのは、井伊次郎の反徳政派離脱を明確にいっている。これに大きく係って直虎を書中で叱責した父親関口氏経の立場や、直虎本人の面目などを、いろいろ直接関係者として匂坂、小野、祝田祢宜が気をつかっている状況もまざまざと記されていて、まるで昨日のことのように読みとれる。実はしかし、この最終的な徳政実行の決着の直後の永禄十一年辰年は今川亡滅の年である。遠州今川領域は騒乱につぐ騒乱が続き、いずれもが落ち着きを喪っていた。中世の終末、今川の没落弔鐘は、領内のそこここに鳴りひびきつつあったのである。
序でにいえば蜂前神社にただ一通直虎文書としてのこされている有名な直虎の花押をすえた文書がある。これが真物(ほんもの)の井伊直虎の文書とすれば、巷間信じられている次郎法師尼変身後の直虎ではなく、連署している関口氏経の子の次郎直虎ということになる。つまり、これは近年法師と直虎を安易に連結させてしまった既説に従う人々にとっては、全く逆のハナシとなって文書の直虎はホンモノではなくなってしまうのである。このこと御理解いただけるであろうか。
新野左馬助は井伊の身内ではなく、今川の家臣関口氏の出身で、100%今川方の人間である。井伊谷は井伊直盛桶狭間討死後混乱が続き、鎮まらないので、駿府の今川氏真から関口越後守氏経の子が井伊次郎直虎となって派遣された。
井伊直虎の赴任は永禄4~5年のことと思われる、直虎は若かったと記されているから15、6歳から20歳までの年齢であったと推定される。それゆえ陣代としてこれまた関口氏から新野家に養子に入った新野左馬助が直虎の後見となった。
つまりこれで井伊谷の実質支配は新野左馬助に委ねられたわけである。
左馬助は井伊直親とも大変仲が良かったので、この駿府今川の処置に対しては異論がなかった。実は井伊の惣領家の名跡は今川独断による人事だが井伊次郎直虎が形式上嗣いだことになり、井伊直親は傍流に甘んじたわけである。
それゆえ直親は井伊谷には住まず他所に滞留した。祝田村とも伝える。これは井伊直虎に対する遠慮である。現在直虎と誤認されている次郎法師は出家の身分であるから、井伊直盛の家宰であった小野但馬守は何事も彼女に対し綺(いろ)うことはなかったのである。小和田氏がいう次郎法師の家督継続に異論をさしはさまなかったのは不思議だという指摘は、他ならず、次郎法師が井伊家の家督など実際は継いでいなかったからである。出家のまま、「出家」をやっていたのである。地方名家の尼さんとして、やや大袈裟にいえば一族の精神的、宗教的象徴として存在したと思われる。その上にあったのが今川貴族井伊次郎直虎である。
直虎は大分頼りないお坊チャマであった気配である。徳政一件に関して、これの実行を拒んだのは次郎法師から変化した井伊直虎とされているが、これは現在のこされている徳政実行に動いた匂坂直興の書状の中に登場する、井伊次郎の扱われ方と、新発見史料の記す井伊次郎の登場情況を読み合せると、極めて無理のない整合性があって、井伊谷の小野但馬、祝田の祢宜、今川氏真、関口越後守の動きがすんなりと、また生き生きとして蘇ってくる。これまで苦労したが徳政反対者が強く行動しようとしてもこんどは井伊次郎が対手になるから、何の心配もないと書いているのは、井伊次郎の反徳政派離脱を明確にいっている。これに大きく係って直虎を書中で叱責した父親関口氏経の立場や、直虎本人の面目などを、いろいろ直接関係者として匂坂、小野、祝田祢宜が気をつかっている状況もまざまざと記されていて、まるで昨日のことのように読みとれる。実はしかし、この最終的な徳政実行の決着の直後の永禄十一年辰年は今川亡滅の年である。遠州今川領域は騒乱につぐ騒乱が続き、いずれもが落ち着きを喪っていた。中世の終末、今川の没落弔鐘は、領内のそこここに鳴りひびきつつあったのである。
序でにいえば蜂前神社にただ一通直虎文書としてのこされている有名な直虎の花押をすえた文書がある。これが真物(ほんもの)の井伊直虎の文書とすれば、巷間信じられている次郎法師尼変身後の直虎ではなく、連署している関口氏経の子の次郎直虎ということになる。つまり、これは近年法師と直虎を安易に連結させてしまった既説に従う人々にとっては、全く逆のハナシとなって文書の直虎はホンモノではなくなってしまうのである。このこと御理解いただけるであろうか。
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