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前後截断録 第24回

『井伊直弼史記−若き日の実像−』


前書きと後書きをご覧ください。
本編の趣旨を知っていただくとありがたく存じます。今回はちょっと異風の発表になりますが・・・・  

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—はしがき—
人はこの世に生み落された瞬間、ある運命的な死に向って歩かされる。死というものの規模、そこへ歩み至る道のりについては、本人にはわからない。しかしそのことどもはもう既に決定されているのだ。

直弼の場合、その歩みの途中で想像しえぬ昇進栄達をとげたが、同時に稀有な凶運から遁れ得なかった。非命の人である。その行かねばならぬ畢竟空、無相の道もはじめから決定されていた。四十六年の歳月をかけ、その春の三月三日に訪れる雪の朝にむかって着々と歩むことである。おのれが切断され、その身首、所を異にされる最後の道は、運命的な雪の朝――であった。
唐突だが私の積年の思いは、直弼のその雪の朝に至るまでの道程を、できるだけ正しく追い辿りたいということであった。綺麗事ではない真の姿を掴みたい。 だが身過ぎ世過ぎの間をかいくぐって牛の歩みの資料探索と執筆だから、気がついたら半世紀もかかってしまった。ふり返れば実に貴重な時間を他のことに使 いすぎてしまった。苦笑いするしかないが、人生というものは概してそんなものであって、わが敬愛する良寛さんのいうごとく「知愚コレニヨリ、迷悟互イニ相 為ス」である。つまり「古来其レ然リト為ス」のだ。それはそれで「了」としなければならない。ともかくは直弼の若き日の実像は産み出すことができた。頽齢 七十五をこえたが、それでも書き続けられたことが嬉しい。出来の如何はともかく、これは自分にしか書けない「直弼」のまことの姿であることはたしかである。 天の赦すところの果実に謝すのみである。

   水上落花
         
見わきてん  さそはる水も しはしまて
白きは雪か 泡か桜か 直弼

顧みれば。・・・
—あとがきにかえて—

井伊直弼という人物はむかしから毀誉褒貶甚しく、いまだ評価が定まっていな い。直弼の郷土彦根に彦根藩に縁をもって生まれ育った私は、独立人として生活 するようになって、いつかこの「井伊直弼」という人物を、そのほんとうの姿を、 伝記してみたいと考えるようになった。 それで、仕事の暇をみつけては、ナマの史料を収集したり、当時まだ生存して おられた彦根藩の古老を訪ねて、既に活字になった資料類からは得られない、臨 場感に満ちたお話を聞いたりして、それらを少しずつではあるが記録し留める作業をはじめた。

今、その主要簿冊の表紙をみると「昭和五十二年四月起」と書いてある。もう 四十年以上の歳月がすぎている。当り前だが愕然とした。もういい加減何とかし ないと手遅れになってしまう。ほんとは井伊直政の伝記である旧著『井伊軍志』 (彦根藩甲冑史料研究所(平成元年刊)のような厚みあるものに仕上げたかった が、とりあえず、とにかく、小冊でもいいから直弼の真影を追った書き物を遺し ておこうと思った。

小部な作品で直弼の真影など著わせる筈はないのである。わかっている。
これは申し訳にすぎない。次冊『大老の真実』が人生最大の債務である。決済期日を迫っている。考えればこの著書はのんびりしすぎた結果の焦りの産物でもある。
はじめの所でもいっているが、史料の羅列やさかんに註釈をつけるのは好きてではないので採用しない方向で、叙述の部分によっては厚薄平均を欠くけれども、 窮屈でない気楽なノンフィクション史話に仕上げたつもり。しかし中味は手垢のついた従来の史説とは異る初聞が多い初公開の新鮮な素材であること、一読承知いただけたかと思う。
歴史における人間の裸の現実の姿を「井伊直弼」という希有な生涯を送った人 物の上に直視することができていたら、私の目的は達せられる。

平成三十年正陽吉日



※詳細はWebサイトお知らせ欄『井伊直弼史記ー若き日の実像ー』の記事をご参照ください。

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前後截断録 第23回

やっと出来た『井伊直弼史記ー若き日の実像ー』

 タイトルの書物のことは、HP上、いろいろなところで既に紹介されているから、いまさら更にくどくどしく追加することもない筈である。しかしできの悪い息子ほど何とやらで、いろいろ言い訳にちかい挨拶をしたいもので、以下の述べることは、およそ、まあそういうことである。
 「井伊直弼の研究」という課目は、大概していえば明治以来かなりなされてきたようであるけれど、幕末史における旧体制側の主人公的主要人物であったにしては、なおその研究はかなり観念的で空疎であるやに思われる。いってみれば、人間直弼の人物解析に迫ったものがないのである。たとえば、直弼と武道についても、実態考究をしたものはない。全て史料の題目だけを信じた結果の単純解説で終わっている。仏道についても亦然りである。
 二十代後半から、私は既成の直弼本の大抵について右のような不満を抱いていた。史料収集に一定の目的をもちはじめたのもその頃からである。
 そもそも「井伊直弼」という人物をいつから意識したのであろうかーと、ときおり思い返すことがある。そんなとき決って古い記録映画のようなノイズだらけのモノクロのシーンが泛び上ってくる。
 中学一年のホヤホヤ、日本史の最初の授業の時だった。
 担任の藤本という先生が教壇に立つなり
————この中で、イイナオスケと漢字で書ける人いるかナ?
ときいてきた。手をあげなさいということである。私は手をあげた。度胸が要ったが黒板の前に立ち、
 井伊直弼
と、書いた。
————マア、よく書けましたね。
先生はそんな褒辞をくれた。
 その頃はナマイキの全盛であったから、この位のこと書けなくてどうするんじゃーと軒昂たる意気であったが、直弼を意識しはじめたのはこのことがとっかかりではなかったかと思われる。
 キミマロさんの漫談ではないが
————-それから50年。その間、一人前に無頼放蕩の期間が結構あったから、きっかり、まじめに50年も直弼さんと密着していたわけではないが、それでも忘れずにとりついて、どうやら、このたびの暁日をむかえることになった。
 先に観念的で空疎であるーと、これまでの先生方の研究を総括したようにいったが、要は史料をさんざん使ったわりには、直弼の声や体つきが、体臭がわからない。直弼が立ち上ってこないと思うからである。その無念の思いを私は少しは晴らせたのではないかと、ひそかに思うのである。但、自分勝手に独り決めしたものだから公証性はない。
 ともかく、よし、読んでやろう!と気概のある人は是非とも一読たまわりたいのである。
 
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前後截断録 第18回

『井伊直弼史記ー若き日の実像』より

井伊直弼史記表紙jpeg


やっとのことで稿了。
そしてもう3ヶ月が経過。校正、校正また校正。
勿論三校や四校位でないことは勿論で、やっても、やっても、アヤマリがみつかる。
その間、装丁やらケースの仕様、用紙の吟味等々。
匆々、苛々しているうちに連休に突入。世の中一斉休業。
しかし早くから予約していただいたり、刊行を心待ちして下さったりしている人々がふえてきたので、これは大きな励みです。
ありがたく感謝して、ともかく頑張ってやります。
今日は井伊直弼史記中よりひとくだり紹介します。
一寸みておいてください。


ご予約はこちらよりどうぞ
http://www.ii-museum.jp/blank-10


ー蝉問答ー(第3章 (4)-7 )

・・・・直弼には寒い季節が長い。とに角、常時口に念佛を誦す。ある冬の朝餉に干した塩鮭が出た。

 雪の朝ひとり干鮭を噛み得たり

 芭蕉の句を思い出したという。「雪の朝」は直弼の人生最後の景色へとつながる運命的な風景であるが、只今の直弼の眼に映じた雪の具合はどのようなものであったろうか。彦根の雪のふりようを著者はよく知っているから、いろいろに想像される。

 から鮭も空也の痩せも寒の中

 脳裡に連想されたのは右の句である。直弼は空也上人が好きであった。空也は天禄三年、西暦九七二年七十歳で歿したという。高貴な生れと聞いているが、そんなことはどうでもいい。重要なのは若い時から仏教に帰依し、広く日の本を巡歴し、ひたすら口誦念佛をもって、時に踊り、ときに井戸をほり、橋を勧進したという。そこには独自の仏道をもって民衆を教化したという壮大なエネルギーがある。これは直弼の身からすれば、及ぶ能わざるところの憧れである。生きた仏道というものはこのような実際的な行動につながる教えであろう。宮本武蔵の兵法でいえば「大分の兵法」である。直弼の今の立場、状況で、仮にこれをやろうとすれば、許されるだろうか。許されはしないだろう。ただの出家ならばともかく。大名の公子たるもの、それも大藩の子弟が、鉢を叩いて全国を彷徨うことが叶うものか。幕府が、世間が許しても三十万石が許さない。全てが許されたとしても、まず空也の肉体的能力に克てない。常に悩まされるひどい頭痛、冷え症、ことごとに物に拘わる神経性、潔癖。これだけで、もう十分である。実践仏道者には到底なりえない。勿論、直弼も左様な別所の人間になろうなどと思ったことはないが、少くともそこには仏の道を行く者としての理想の世界があると憧れたのである。要するに現実の生活からは離れられない。

 直弼のもとで下役をつとめていた鈴木源蔵の話に戻る。

 ある夏の一日、源蔵は庭の掃除の途中、木から落ちた一匹の弱った油蝉が、数匹の蟻に襲われているのをみた。どのみち、死ぬのだからとそれを取り除けようとしたら、背後に直弼が立っていた。少々驚いて源蔵がふりむくと、

――蟻どもを払って、木につけてやれ。

でも、すぐにこの蝉は落ちて死にますよ、とは源蔵は言えなかった。源蔵は慌てて蝉を拾い、とりついていた何匹かの蟻を払い落すと、その辺りと思われる木の幹にとりつけてやった。蝉は前足をわずかに動かすと再び地面に転った。
源蔵は直弼をふり返った。どのような表情をしていいのか困ったという。

――運命(さだめ)じゃ…もうよいぞ。

 蝉の運命とは大袈裟な物言いと思ったが、余り不自然にも感じられなかった、と源蔵は後年語り遺している。

「宗観様(直弼の法号)はな、善根を積んだと仰せられた。わしと一緒にじゃ。これはまことに畏れ多く有難き仰せじゃった」

 直弼にしてみれば、この刻、この瞬間に在ること、全てが因であり縁であった。死ぬことが眼前にみえていても、なお生きんとするものに会した時、この因に応ずる身心の動きは果である。これを済(すく)おうとするか、坐視するか、それは事に会したものの自由である。慈悲も諦観も仏の掌の裡だ。この場合、蟻に襲われた蝉を救わんとする心は慈悲であり仁、義でもある。蝉時雨の中にある数多の一匹、はからずも数ある内の蝉のひとつに出会ったということは、それが盛んに鳴いていようがいまいが死に頻していようがいまいが、大なる因縁―仏縁である。何はともあれ、そこに心して仏性を観ずることは弥陀の本願に通ずる。

 要するに源蔵にははっきりいって面倒な世界であった。二十八歳の直弼は本気である。余りにも広大無辺な仏教の世界は、実の心に入れての理解は殆ど不可能であるが、そのいずくに於ても、独自の解釈―理屈が立てられそうな世界が面白かった。

やがて死ぬけしきはみえず蝉の声

直弼はそういう句をよんで書院に戻って行った。その時は単に古人のうたと単純に聞き捨てたが、のちに芭蕉の句であることを知った。

 この「やがて」には無常がある。無常は即、死につながる。

 『往生要集』で法然は『涅槃経』を引いてこういう。

「人命とどまざること、山の水より過ぎたり、今日存すといえども明(あけ)はまた保ち難し」また『大経』に於て、「それ盛なれば必ず衰るあり、合会(ごうえ)に別離あり、壮年は久しくとどまらず、… 命は死の為に呑る」

 ここから人は必然的に思惟的になる。人によってはひとつの蝉の生死に心を寄せ夢よりもはかなき世のなかを知らされる。直弼のように若く感性のたおやかなひとはここに「あはれ」(哀れ)をみるのである。

 「あはれ」というのは本居宣長によると「見るもの聞くもの触(ふ)るることに心の感じて出づる嘆きの声」であるという。いまの直弼の状態でいえば生死に関わる蝉の姿を見つめる――ながむることによって生まれる心の動きである。喜怒哀楽全ての情(こころ)の発する根元にはこの「ながめる」がある。これが詠嘆につながる。ながむるは「詠むる」である。心の発するさけびである。ここに菩提心が生まれ、うたがうまれてくる。仏道と和歌の道はつまるところ軌を一にしていることがわかる。直弼がうたの道――敷島の心を志していったのは自然のなりゆきであり、それが同時に他ならず仏道を参究してゆくことにつながっていくのである。

 「あはれ」の思いを即心的につめてゆくと仏の道になるし、物に即(つい)て凝視すると、うたの世界に入ってゆく。しかしそれは二色に分かれているわけではない。結局、仏道も歌道も同一の軌跡を辿る。入るも出るも俱に一処であることに気附くのだ。

 蝉の生死も人間のそれも、おなじ宇宙からみれば同事である。そこには一番はじめに平易な南無阿弥陀仏があるのだが、その場所に暫くは安坐しても満足できないのが直弼の性格であった。

(「鈴木源蔵記録」より)

『井伊直弼史記』ご予約はこちらよりどうぞ
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前後截断録 第10回

チャカポン

直弼自作棗
直弼自作棗

 直弼のあだ名として用いられる言葉に「チャカポン」というのがある。つまり茶道と和歌、能の鼓の音ポンを合体させたものである。この直弼に冠せられた、誰が聞いても余り響きのよくない綽名は、その音の示す通り、直弼に対し好意的な人々によってつけられたものではない。

 直弼は茶の湯と詠歌とお能さえさせておけばいい、いやそれだけが能のおとこであるにすぎないという、幕府の大老としてもっとも重要な政治性の欠乏に於いてかれを揶揄(からか)ったものである。その視点から窺えば、アダ名の出処は自からあきらかである。井伊直弼を敵視する反体制、反主流派的立場の人々から発せられた悪意のあるあだなである。ところが、近来この事情を知らない地元彦根の多くが、直弼を代名する「良いことば」と勘違いして、チャカポン、チャカポンとやっている。若い研究者もこの事情など知らないから、何の考えるところもない、彦根の、少なくとも歴史を多少でも知る人々はこの「チャカポン」という蔑称仮名を容易に使ってはいけない。要するにこのことばは直弼を小莫迦にした浮薄なことばであることを知るべきなのである。