前後截断録 第36回
磯田さんの取材と古文書のこと
先般、明智光秀を特集するTV番組の取材のため、磯田道史氏が取材関係者の方々と一緒に私のもとへ来られた。磯田氏はTVの歴史番組では当今最も登場率が高いと思われるメディアの寵児である。
私は先年井伊直虎の資料発見に伴って記者会見をしたとき、報道された内容について最も正当な判断をして感想をのべていた研究家として、磯田氏の名前を記憶していたから、ステーションからの取材依頼を快く引き受けたのであった。
磯田さんは、先年のことを記憶していた。むしろ覚えていたからこそ、興味がつきていなくて、別の取材を幸いに、いわばそれに事寄せてこちらにみえたというのが本当のところであろう。
大河井伊直虎ドラマのとき、直虎が女ではなく男であって、その直虎の活動、生死の事実を記した文書資料を取材に先立って拝見したいというので関係資料をお見せした。本題の光秀関係資料の取材が控えているので、十分余裕がないのが遺憾であった。
磯田さんの今回の井伊美術館取材のテーマは明智光秀の遺品や記録の探索である。とくに当方は光秀の刀剣や甲冑、それに光秀本能寺襲撃に至っての重要言動記録を古文書の中から私が発見したので、それらの実見と紹介が中心となった。視聴者の一般はやはり武器に興味がある。光秀の愛刀は私の関係先からみつかったものだが、スタッフの人々もやはり一番に刀からカメラを回したいようだった。ところが磯田さんは井伊家関係の古文書や記録に興味がある。光秀が本能寺襲撃に際して部下に指令した重要なことばの部分を古帳をひろげて指し示すと、むしゃぶりつくようにして、その部分を声を出して読んだ。
(本能寺にいる連中は)
「足袋、脚絆もしていない。足許が汚れていないから、そういう輩は全て殺せ」

本能寺襲撃の際、
光秀の命令指示の記録をのせる彦根藩記録
記録の古文を現代風に意訳するとおおよそこのような命令を光秀は下しているのだが、それを文書のままスラスラと読んだ。文書の書体は今でいう標準語的なわかりやすい整った書体だから磯田さんにすれば(私も含めて)それは当たり前のことである。ちがっていたのはそのような新しい知見に対する表情であった。本能寺宿営の敵は、光秀軍とは異り行軍してきたわけでもなく、旅装もしていないので足もとは綺麗で汚れていない。この場合の光秀の指示は、いかにも光秀らしい端的で抜け目のない、みごとな命令であるが、その悽さが磯田さんの六感には戦国の匂いとして今、その場で光秀の肉声をじかに聞いたように思えたのであろう。表情全面が輝いて、まことに大どかな喜色を満面にあらわした。TV上の演出という部分を十分に割引いても磯田さんの振りはほんものであった。
およそ「学者」と称(い)われ、それを自認する人々は、真の表情をおもてに出さない人が多い。内心びっくりするようなモノを目にしたり、触ったりしても無表情で、この程度は何てことはない、という顔をする。ホントはモノがよくわからない、目の利かない人が多いのかもしれない。実際、過去にこんなことがあった。歴史関係の某有名大学の名誉教授だったと思うが、たしかお弟子さんをつれて来たと思う。何の古文書か忘れたが、それをみせたら、先生はじめは順調に行っていたがある所でつまづいた。読めないのである。困っているので「それは・・・ですよ」と教えたら先生は弟子の方に向かってこう宣うた。「・・・ナルホド。そうも読むこともありましょう」
活字になった古文書や記録ばかりを読んで、現物に直接当らない「歴史家」といわれるセンセイも少くないのである。
たとえば、一般的な藩の公式文書のようなものは祐筆の手になった万人向きの正統書式を採っているから、まじめに半年勉強をすれば大抵は読みこなせるようになる。しかし、個人の自筆、特に癖字の人のものになるとそう簡単にはいかない。
私自身の感想で言えば、近世文書の範囲では、桃山〜江戸前期の人々の書いたものは取付きやすい。しかし、幕末の多忙時に書き流した人の文字はむつかしい。それを井伊家の人々にたとえていうとその代表は井伊直弼である。かれの崩した走り書きの文字は厄介である。歴代中もっとも難解で、自己流の崩し文字も多数混淆されているので、一読了解には程遠い。かれの読後火中の密書など、スラスラやった人はいまだかつてない。それは当たり前なのである。

井伊直弼の絶筆(一部)
三浦内膳宛(安政七年二月二十五日付)
磯田さんの話から、いつの間にか井伊直弼の文字に話が飛んでしまったが、そんな難物を今は亡き末松修という直弼研究の先生と一緒にああでもないこうでもないと一字一字思いはかりながら読んで若い頃が懐しい。
あの頃の古文書の匂い、それは現在でも変わらないのだろうけれど格別香り高かったように私には思えるのである。
先般、明智光秀を特集するTV番組の取材のため、磯田道史氏が取材関係者の方々と一緒に私のもとへ来られた。磯田氏はTVの歴史番組では当今最も登場率が高いと思われるメディアの寵児である。
私は先年井伊直虎の資料発見に伴って記者会見をしたとき、報道された内容について最も正当な判断をして感想をのべていた研究家として、磯田氏の名前を記憶していたから、ステーションからの取材依頼を快く引き受けたのであった。
磯田さんは、先年のことを記憶していた。むしろ覚えていたからこそ、興味がつきていなくて、別の取材を幸いに、いわばそれに事寄せてこちらにみえたというのが本当のところであろう。
大河井伊直虎ドラマのとき、直虎が女ではなく男であって、その直虎の活動、生死の事実を記した文書資料を取材に先立って拝見したいというので関係資料をお見せした。本題の光秀関係資料の取材が控えているので、十分余裕がないのが遺憾であった。
磯田さんの今回の井伊美術館取材のテーマは明智光秀の遺品や記録の探索である。とくに当方は光秀の刀剣や甲冑、それに光秀本能寺襲撃に至っての重要言動記録を古文書の中から私が発見したので、それらの実見と紹介が中心となった。視聴者の一般はやはり武器に興味がある。光秀の愛刀は私の関係先からみつかったものだが、スタッフの人々もやはり一番に刀からカメラを回したいようだった。ところが磯田さんは井伊家関係の古文書や記録に興味がある。光秀が本能寺襲撃に際して部下に指令した重要なことばの部分を古帳をひろげて指し示すと、むしゃぶりつくようにして、その部分を声を出して読んだ。
(本能寺にいる連中は)
「足袋、脚絆もしていない。足許が汚れていないから、そういう輩は全て殺せ」

本能寺襲撃の際、
光秀の命令指示の記録をのせる彦根藩記録
記録の古文を現代風に意訳するとおおよそこのような命令を光秀は下しているのだが、それを文書のままスラスラと読んだ。文書の書体は今でいう標準語的なわかりやすい整った書体だから磯田さんにすれば(私も含めて)それは当たり前のことである。ちがっていたのはそのような新しい知見に対する表情であった。本能寺宿営の敵は、光秀軍とは異り行軍してきたわけでもなく、旅装もしていないので足もとは綺麗で汚れていない。この場合の光秀の指示は、いかにも光秀らしい端的で抜け目のない、みごとな命令であるが、その悽さが磯田さんの六感には戦国の匂いとして今、その場で光秀の肉声をじかに聞いたように思えたのであろう。表情全面が輝いて、まことに大どかな喜色を満面にあらわした。TV上の演出という部分を十分に割引いても磯田さんの振りはほんものであった。
およそ「学者」と称(い)われ、それを自認する人々は、真の表情をおもてに出さない人が多い。内心びっくりするようなモノを目にしたり、触ったりしても無表情で、この程度は何てことはない、という顔をする。ホントはモノがよくわからない、目の利かない人が多いのかもしれない。実際、過去にこんなことがあった。歴史関係の某有名大学の名誉教授だったと思うが、たしかお弟子さんをつれて来たと思う。何の古文書か忘れたが、それをみせたら、先生はじめは順調に行っていたがある所でつまづいた。読めないのである。困っているので「それは・・・ですよ」と教えたら先生は弟子の方に向かってこう宣うた。「・・・ナルホド。そうも読むこともありましょう」
活字になった古文書や記録ばかりを読んで、現物に直接当らない「歴史家」といわれるセンセイも少くないのである。
たとえば、一般的な藩の公式文書のようなものは祐筆の手になった万人向きの正統書式を採っているから、まじめに半年勉強をすれば大抵は読みこなせるようになる。しかし、個人の自筆、特に癖字の人のものになるとそう簡単にはいかない。
私自身の感想で言えば、近世文書の範囲では、桃山〜江戸前期の人々の書いたものは取付きやすい。しかし、幕末の多忙時に書き流した人の文字はむつかしい。それを井伊家の人々にたとえていうとその代表は井伊直弼である。かれの崩した走り書きの文字は厄介である。歴代中もっとも難解で、自己流の崩し文字も多数混淆されているので、一読了解には程遠い。かれの読後火中の密書など、スラスラやった人はいまだかつてない。それは当たり前なのである。

井伊直弼の絶筆(一部)
三浦内膳宛(安政七年二月二十五日付)
磯田さんの話から、いつの間にか井伊直弼の文字に話が飛んでしまったが、そんな難物を今は亡き末松修という直弼研究の先生と一緒にああでもないこうでもないと一字一字思いはかりながら読んで若い頃が懐しい。
あの頃の古文書の匂い、それは現在でも変わらないのだろうけれど格別香り高かったように私には思えるのである。
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