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前後截断録 第21回

『ほんものの井伊直虎ーホントの本当ー』完成

古写真井伊谷の井戸八幡大菩薩神旗のコピー

左:昭和40年はじめ頃の共保出生伝説の井戸(館長撮影)
右:八幡大菩薩神号軍旗。八幡大菩薩の神号を大書した古軍旗で、乳を設けない古式の流れ旗。江戸期、井伊家家老新野家に伝来。新野家は断絶に瀕した井伊家を擁護し、直政を命がけで守った左馬助親規の子孫として名跡をついだ重臣。これがのち井伊家八幡神旗流れ旗の原型となる


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「女城主 井伊直虎」の話は、現代の激動する情報社会の中では奔流のなかの一抹の泡のごとく既に遠くへ流れ去った。忘却済みの事柄であるかもしれない。

しかし、直虎の真実のところは明確にして書き残されなければならない。丁寧に土を鋤いて、その一粒ひとつぶに陽をあててあげるような、情愛の要る仕事ではあるが、――それがたとえ雲を耕すような、人の顧みない甲斐のない仕事であっても、やらなければならない。やるべきである・・・。

と、いうわけで上冊に続いて、まもなく下冊完成します。
何か大きな借金を無事返済し終った感じ。ありがたい達成感を懐いて・・・・・


<上冊はしがき>

女城主とされた井伊直虎の大河ドラマは既に終ったのに、なぜまた今頃井伊直虎を書いているのか―と事情を知らない人は思うかも知れない。実のところこれはドラマとは直接何の関係もない。本物の「井伊直虎」を書いているのである。なぜかというとドラマは創作劇であるから、女性城主の架構もあり得る。しかし、史実としては直虎は女ではなくまともに男性であった。その間違いをドラマに対して衝くのではなく、歴史の上でそのように男女をとりちがえてしまった歴史専門扱者のあやまりを、それに伴う一部世間の誤認をはっきり訂正しておきたいためである。

逆に言えば、ドラマがそのきっかけを与えてくれた。井伊直虎という名前が著者の脳裡に飛びこんで記憶された結果、偶然に直虎に係る新史料が、これまた直接には関係のない古文書記録の中から二度にわたって発見されたのである。

ドラマがなければ、このような図ったようなタイミングの決定的な史実発見はなかったであろう。となると、歴史、特に井伊家の歴史にかかわる者としてそのことを詳しく書きとめておく必要がある。それも出来るだけ多くの人に読まれ理解されるように誰にもわかる平俗なわかりやすい表現でまとめる必要がある。

本書発表の原典となった『守安公書記』は未刊全十二冊、大部な彦根藩草創期の史料である。いづれの日にか、この井伊家の歴史宝典が世に出ることを願って、まずはこの井伊直虎の真実記を諸賢に供したい。


<下冊はしがき>

中国の歴史をみていると、実に遼遠偉大を感じる。ひとつの王朝が勃興し、系を重ね、衰微すると簒奪され、次の覇者に交替し、また同じ発展と衰滅の運命を辿る。まさに歴史は繰り返す。同じ王朝でも同系が分裂して、前後東西はては南北に分立する。周の東西、漢の前後、晋や宋における東西と南北。

我国の歴史も中国のそれにくらべたら随分スケールは小さくなるが、歴史の盛衰のうちではやはり相似た変転、覇者の名義使用と交替をやっている。鎌倉時代でも源家三代と北条執権の時代とは血統的にいってもあきらかに異る。前の鎌倉、後の鎌倉と時代を分けて考えてもよいだろう。そして、更にその北条が前の北条とされ、やがて伊勢新九郎による後の北条氏がでてくる。両朝対立の南北朝も畢竟するところ分裂、交替の歴史である。

遠州国人の古豪井伊氏も数家の井伊家が争覇を繰り返し盛衰を経てゆくうちに、当時本宗家と自他称していた井伊谷の井伊直盛が後継なきまま討死した。宗家断絶の危急の中、上位権力の戦国大名今川から重臣の子が井伊氏をつぐ旨をうけ井伊谷にやってきた。これが井伊次郎直虎である。ドラマのような女領主ではなく立派な男性であった。この井伊氏の系統の交替と継続は実質的な部族交替である。今回、著者が新史料を発見しなかったら、この根本的血族交替による家名の継続は表に出てこなかった。井伊氏は一系の尊き家柄として、そのまま「歴史」の中に真実として埋没されてしまうところであった。そして、この井伊次郎直虎のあとを、少し前、ドラマや物語本の世界ではごく自然の如く井伊直政がうけとったことにされていた。一部学者さんのいうバトンタッチだ。これでそのままゆけば井伊氏の完全無欠、いわゆる「万世一系」の誇るべき家系伝説が完成される筈であった。…ところが、実は井伊氏の家系も、真実は「継ぎはぎ」である。直盛の系統が「井伊氏」の総本家でないことは史学上周知のことがらであるが、この直盛の死で断絶したところへ今川から直虎がきて、これが亡び、別系(庶流)から頭角をあらわした万千代直政が井伊氏を復興させた。―これが正しい井伊家の戦国末〜近世初期の本当に正しい系統史である。

本書は、大河ドラマで有名になった井伊直虎の真実を出来るだけ事実に拠って記録するものである。戦国の古豪井伊氏の終焉と近世勃興清新の井伊氏、この新古両井伊の交替は実に歴史的事件であり、これをあきらかにすることはドラマの偶然を機に、新史料を発見した著者の責務であると考える。

本書上冊は、二次に亘る新史料発見の経緯をドキュメンタリー風に、というよりメディア発表等はまさにそのままに再録し、更に新しい知見を加えてまとめたものである。それに続く下冊は、井伊直虎とそれをとりまく周辺人物、環境をのべ、軍将として存在のたしかさを欠く直虎の実情を考察すると共に、かれがただひとつ、武人としての面目、意地を立てたであろう徳政問題に及び、そして、その最後に至る道を辿ってみた。ほんものの井伊直虎は幻影のような生涯を生きた。真実の直虎は墓碑さえもこの世の何処にもない。存在するとすれば、微かながらこの書き物の裡に建立されているのかも知れない。本書が直虎の紙碑となること、念じてやまない。

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前後截断録 第6回

「ほんものの井伊次郎直虎」その周辺事情

新野左馬助は井伊の身内ではなく、今川の家臣関口氏の出身で、100%今川方の人間である。井伊谷は井伊直盛桶狭間討死後混乱が続き、鎮まらないので、駿府の今川氏真から関口越後守氏経の子が井伊次郎直虎となって派遣された。
井伊直虎の赴任は永禄4~5年のことと思われる、直虎は若かったと記されているから15、6歳から20歳までの年齢であったと推定される。それゆえ陣代としてこれまた関口氏から新野家に養子に入った新野左馬助が直虎の後見となった。
つまりこれで井伊谷の実質支配は新野左馬助に委ねられたわけである。

左馬助は井伊直親とも大変仲が良かったので、この駿府今川の処置に対しては異論がなかった。実は井伊の惣領家の名跡は今川独断による人事だが井伊次郎直虎が形式上嗣いだことになり、井伊直親は傍流に甘んじたわけである。

それゆえ直親は井伊谷には住まず他所に滞留した。祝田村とも伝える。これは井伊直虎に対する遠慮である。現在直虎と誤認されている次郎法師は出家の身分であるから、井伊直盛の家宰であった小野但馬守は何事も彼女に対し綺(いろ)うことはなかったのである。小和田氏がいう次郎法師の家督継続に異論をさしはさまなかったのは不思議だという指摘は、他ならず、次郎法師が井伊家の家督など実際は継いでいなかったからである。出家のまま、「出家」をやっていたのである。地方名家の尼さんとして、やや大袈裟にいえば一族の精神的、宗教的象徴として存在したと思われる。その上にあったのが今川貴族井伊次郎直虎である。

直虎は大分頼りないお坊チャマであった気配である。徳政一件に関して、これの実行を拒んだのは次郎法師から変化した井伊直虎とされているが、これは現在のこされている徳政実行に動いた匂坂直興の書状の中に登場する、井伊次郎の扱われ方と、新発見史料の記す井伊次郎の登場情況を読み合せると、極めて無理のない整合性があって、井伊谷の小野但馬、祝田の祢宜、今川氏真、関口越後守の動きがすんなりと、また生き生きとして蘇ってくる。これまで苦労したが徳政反対者が強く行動しようとしてもこんどは井伊次郎が対手になるから、何の心配もないと書いているのは、井伊次郎の反徳政派離脱を明確にいっている。これに大きく係って直虎を書中で叱責した父親関口氏経の立場や、直虎本人の面目などを、いろいろ直接関係者として匂坂、小野、祝田祢宜が気をつかっている状況もまざまざと記されていて、まるで昨日のことのように読みとれる。実はしかし、この最終的な徳政実行の決着の直後の永禄十一年辰年は今川亡滅の年である。遠州今川領域は騒乱につぐ騒乱が続き、いずれもが落ち着きを喪っていた。中世の終末、今川の没落弔鐘は、領内のそこここに鳴りひびきつつあったのである。

序でにいえば蜂前神社にただ一通直虎文書としてのこされている有名な直虎の花押をすえた文書がある。これが真物(ほんもの)の井伊直虎の文書とすれば、巷間信じられている次郎法師尼変身後の直虎ではなく、連署している関口氏経の子の次郎直虎ということになる。つまり、これは近年法師と直虎を安易に連結させてしまった既説に従う人々にとっては、全く逆のハナシとなって文書の直虎はホンモノではなくなってしまうのである。このこと御理解いただけるであろうか。

前後截断録 第5回

磯田道史氏の「古今をちこち」から

 只今、やや大袈裟にいえば歴史ファンの殆どの人が井伊直虎が女であったか、男であったかで興味津々、話題沸騰の感じである。大勢は歴史素人衆の内でも、どうやら男らしいというのが大勢を占めてきつつある気配である。

 これは歴史がわかる人には当然のことであるがそんな中、読売新聞(平成29年1月11日刊「文化欄」)の「古今をちこち」というところで磯田道史氏が「『直虎』と名乗ったものは…」というタイトルで井伊谷の跡職をついだのは直虎という男性だったという当館のニュースにもとづいた一文を寄せられている。たしかその中で井伊次郎(直虎)がいつ井伊谷に赴任してきたのかがわからないと書かれてあった。

 記者会見(会見平成28年12月10日発表15日)で当方がマスコミの方々に公表したのは、わずかに三項目程。その中には井伊次郎は若かったので新野左馬助が補佐したという部分が含まれていた筈であるが、これは報道されていなかったのであろうか。まず拙子自身記憶していないとはケシカラヌはなしではあるが。

 新野は永禄七年の飯尾攻めで戦死している。井伊次郎は少くともそれ以前、つまり桶狭間で直盛が永禄三年に討死して井伊谷が荒れ、新野が死ぬ永禄七年に至る4年の間、少くとも新野健在の時代に井伊谷のいわば総督的立場として赴任し、永禄11年に最後の姿(連署状)をみせて消えるまでの5~8年の間は井伊谷にいた筈の人物である。
まず当初はお飾り物的立場の井伊谷総督であったわけである。であるから磯田氏はそこまでの当方の情報は御存知なかったのであろうけれど、少くとも氏のいうような1ヶ月や2ヶ月の井伊谷当主ではなかったのである。

 また次郎法師が永禄11年まで井伊谷の支配者であったとし、今川氏真もそのことを認識していたと「瀬戸方久宛今川氏真文書」をその証としてあげられているが、この文書は今でいう金融業者瀬戸方久の井伊谷土地買得における債権存在の実正保証をしたまでの文書で、これをもって井伊谷一帯を支配したとまでは言えないのではないかと思う。
それが証拠に、次郎法師の「年寄」や「主水佑」までが、証人となっている。しっかりした支配能力があれば、畏れ多くも御領主様の次郎法師までが登場する必要はないと思うが如何であろうか。次郎法師の政治的基盤は当初から大変弱かったとみられる。江戸時代井伊家の借金の保証裏書は中級のいわゆる仕置家老が裏判を捺して保証人になっている。

 因に、この「主水佑」を阿部浩一氏は井伊主水佑と措定している(『戦国期の徳政と地域社会』)が、その名を「井伊」としながら不明であるとはどういうことであろうか。これは普通に考えれば通称が主水佑ではなく主馬や主膳である可能性もあるからである。
 人物確定の史料がない場合は「井伊」とは決めつけない方がいい(孕石とする古い注釈の引用書もあるが、これも単なる推測にすぎず、誤りである。)当方に主水佑の史料がないわけではないが、今しばらくはあえて不明のままにしておきたい。

 但以上のことは磯田氏には何の関係もないことであるが序でに言及した。当館H.P「識者評言に対する井伊達夫の考え」のところでも書いたが、磯田氏はまことに史眼の利く人で公証性のある独歩の意見をもっておられる。拙子は大いに敬重し、今後の御活躍を期待する一人である。

因に村上豊氏の歴史挿画がよい。
昔から氏の画風は好きだった。
司馬先生の「国盗り物語」の風間完氏の絵に一脈通じ、更に一段進んだような画風である。序でにいうと対照的な画風だが中一弥氏の典型的な時代小説風の絵もよかった。村上氏が時代風俗の考証を抽象化していたとすると、中氏のは具象的であるといえようか。しかし、こと甲冑を扱った挿画となると、私は第一に村上豊氏を挙げる。ずっと前の木下二介氏の絵も好きだった。山岡荘八氏の長編「徳川家康」の挿画は連載新聞を絵のところだけスクラップして真似して描いたりした。二介氏のは武士の眼もとと口がよかった。
村上氏のような甲冑武具を描ける画家はもう出ないだろう。お年は知らないけれど今も御健在だから嬉しい。