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前後截断録 第75回

同窓会、水泳場その他雑記

(一)

 昨年七月の初日に、中学校の同窓会があった。久しぶりの息抜きに、車で彦根まで行く事になった。近頃は息子が成人して、運転は大抵こいつに任せる。少し距離があると、くるまの運転は億劫である。
三〜四十才の頃は仕事が終ってから、少し昏くなってきてもそこから三重や岐阜の方面へ出かけた。夜半の二時頃帰って来ても平気だった。今では想像もできぬバイタリティである。そこからむかしのことに想いをさかのぼらせてゆくと、何もかもゆめ、まぼろしである。

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 岐阜の骨董屋につく頃などは、たいてい店の奥の方から、NHKTVの「ひょっこりひょうたん島」のテーマソングが聞こえる。こんなことは何回もあったから、おおよそ岐阜着の時間が習慣として決まっていたと思える。三重の方は津市で、これは岐阜よりハードだった。マイナス2〜3度の鈴鹿の山並を、彦根へ帰るその頃の自分の姿が泛ぶ。そういえば、あの頃の愛車は日産のセドリックで、いつぞやは名張で犬を買ってしまった。拍子のひょこたんの出来心、今もってなんで買ったのかわからない。末は大型犬になるシベリアンハスキーで、もうその時はかなり大型で、後部座席にのせたがウンともスンともいわず、怯え顔で外を見ていた。帰りみちで何度もワン公はゲロを吐いた。私は犬が好きであったから若い時から犬は大型からミニまで犬種いろいろ何度も飼ってきた。しか連れ歩くのは嫌いでなかったが、肝腎の世話は家人まかせであったから犬についての一人前の話は、する資格がない。三重の方へ行ったのも古物屋巡りで、あの頃はヨロイやカブトの部品が廉かった。当時は今とちがって軸物や陶器類より残存数が少なかったが、これでも時たま珍しいものを見つけることができたのである。話がそれて古物のことに飛んでしまったから本道に戻る。


 同窓会の場所は彦根市内の料理店で、人数は六十数人集った。中学の学年では総数が五百名以上いたから、一割強の参集は八十歳の世代となれば多い方であろう。中学三年生の時はクラスは何組だったかもう忘れていたが、行ってみると六組であったらしい。その組のテーブルに案内されたが、同組の仲間は私を入れて男三人女二人の五人であった。当時のクラス員数の約一割である。我々の中学、高校の同級生は、そのまま地元で暮らして来たものが多い。八十才の現在まで、在地の人間で来たということは終生地元民で終ることになるわけだ。私は彦根から京都へ出てしまったが、そういう人生をなぜか羨ましく感じる。午餐をはさんで宴会は進んでいったが、別に何てことはない。暫くの間は久闊を敍したりそれにつれての昔噺で多少宴会儀式の感があったが、あとは席が乱れて何かしら雑然としてゆく。どこにでもある「同窓会」スタイルである。ガツ々と出されるものを喰い尽くしている奴がいる。同じクラスとの事だが全く記憶がない、会費ぶんは喰わにゃーと頑張っている奴、銚子を何回もカラにしてひっくり返すやつ、みんな「老いて恥なし」である。

 もう虚栄(見栄)を張る必要はないというが、些か淋しいし、これが同輩だと思うと情けない気持ちにもなる。
 学生時代にはみんなそれなりに共通の話題があって、それが一種の連帯感につながったところがあった様だが、今はもう何もない。年月の距離が本来他人の間柄を更に遠くしている。その久闊を叙すのが、本来同窓会の趣旨であるが、「中学時代」というともうホントに遠いむかしである。しかし、同窓会に出て来る——というのはまず今のところ健康であるということと、生活に余裕があるということであろう。そして、それに加えて私も含めて出席の面々は一様に「したたか者」であるということだ。齢八十を超えて、いまだ右往左往できるものはまちがいなく人生の強か者といってよい。これは人生、生きる者の理想である。——と、勝手なことを考えて私は御一統さん達より一足早く会場を離れた。

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同窓会場をあとに


(二)

その間家人たちは、私と離れて別のところで時間をつぶしていた。かれらは国道八号線の方へ廻って、どこかでマクドを買い、更に迂回して湖岸へ出、長曽根の浜でマクドを喰い(ここは昔から私がよく来る場所で、高校時代は日課の散歩ロードであった)、更に「たね屋」で小憩し、ケーキを喰い、銀座に戻って車を預け、”四番町スクエア”なるところへ行ったらしい。



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たねやにて

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四番町スクエアにて

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 そこは至る処「ひこにゃん」だらけで、観光名所とすべくいろいろ新名所を打ち出そうと努力し励んでいる。でも、その努力は些か空回りしている——と家人や子供達の感想であった。どうやら四番町スクエアなるところは私の子供時代、”下の市場”と称した当時、彦根では最も大きな公共市場のあとではないかな——と推量したが、これを企画した主催者の人々の努力はわかるものの、何か中当な異世界の現出を印象付けられた——ということであった。序でにかつての下の市場のことであるが、昔のその入り口にはたしか教会があり、道を挟んで林という産婦人科医院や税務署があった。また近くにホルモン屋や居酒屋、そして彦劇(げんげき)とよんだ映画館もあった。この辺り、江戸時代には中級の武家屋敷に一般の民家が入り混じった静かなところであったが、そこが今は四番町スクエアなる城下の異世界に変貌しようとしている。すべてが時世時節(ときよじせつ)無常の流れというものであろうが、その存続の如何はまた時代が決定してゆくのであろう。

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さびしげなひこにゃん

 下の市場では少年時代、時季がくるとかなり頻繁に鰣(ハス)の塩焼きを買った。ひと塩して炭火で焼いた鰣の皮のパリッとした食感は、今も忘れ難い。鰣は琵琶湖特産と聞いたが、今はもう聞かない。彦根から長浜に至る湖岸に沿って鰣料理屋が何軒かあって、ホントによく行ったものだ。磯山の古城趾の湖岸の突端にあったハス料理屋のことは何かに書いた記憶があるが、もう店の名も忘れてしまった。

四番町彦根古写真
旧彦根市四番町辺りから彦根城京橋口を望む 昭和30年代筆者撮影


 そういえば戦国に立身しのち伊勢藤堂家の祖となった藤堂高虎は、この磯山の城主磯野丹波守の足軽であったといわれるし、藤堂の重臣となった藤堂新七郎は磯の漁師上がりで川海老すくいが得意であったという。この辺り出身の人士には信長、秀吉を陰で支えた人々が少なくない。少し北へ遡ると浅妻という往時栄えた有名な遊区の跡があって、高虎は勿論のち石田三成輔弼の将となる島左近らも時には通ったのではないかと、近くを車で走るたびに思ったりする。

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朝妻

 
島左近
伝島清興(左近)乱髪形変り兜附金朱段塗桶川二枚胴具足 (両乳鐶後補)井伊家家士・犬塚求之助分捕接収品


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(続)
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前後截断録 第74回

一乗谷へ


 歴史好きの人にとって、一度訪れたら忘れられないといっていい場所が必ずあるはずだ。私にとってそれは越前の一乗谷である。一乗谷は越前、福井市の南郊の山峡にある。戦国時代に栄えた朝倉氏の城館の址である。

 この一乗谷へは、これまで何度か足を運んでいる。とはいっても、朝倉氏について詳しく勉強したことはない。朝倉氏の歴史の跡よりも、私は一乗谷そのものの風光を好む。精確にはいえないが、山峡の南北を遮断された隘地にはいまだ過去の歴史が往時のまま封印され、密かに息づいている気配がある。その「気」に私は惹かれる。

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○令和5年9月。上泉流の兵法書では、このような鱗雲は凶兆とされる、大河ドラマの女城主直虎に因んで浜松の平野美術館で展覧会を催した節、遠州井伊谷を訪ねた時も空はこのようであった。現今、少なくとも気候その他世情は安定していない。

 一乗谷訪問は前後三回ある。初度は五十を過ぎたばかりだったから、およそ三十年もむかしである。この時の記憶は明らかではない。ただ、帰路にアクシデントの苦い思い出がある。

若き日の先生(一乗谷)
○最初の訪問の頃

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○近影
 夏の真っ只中であった。帰りの車で真夏の風に当るのも悪くないということで両サイドのウインドを全部あけて走ったところが、夏風にまともに吹き当たられるのは短い間ならともかく、長いのは辛い。窓をしめてクーラとなったが、クーラ浸りもよろしくない。そこでウインドをおろし、窓をあけて走る。暫くするとやはりまた暑い。面倒やな、閉めるかーと自動のスイッチを押したが反応がない。何度やってもビクとも動かぬ。——こりゃ、故障やがな!もう手遅れである。窓は閉まらない。そこからの地獄といったら言語に絶する。もともと歴史に何の興味もないつれ合いは文句を言うこと頻り。夏風の当たりぱなしは車中のクーラーの効き過ぎ等とは比較にならない。

 ともかく苦心(身、辛)惨憺して帰路したがその日は終夜熱風に当たっている感覚から遁れることができなかった。
以上が一乗谷初見参の記憶である。史蹟で気に入ったのは、お湯殿の跡の庭園。これは御殿跡の近隣で、すぐに行けたせいもあるが、実に気持ちのいい古苑庭であった。

 それ以来、再訪は今から六、七年前のことである。福井の近くの鯖江というところの歴史資料館から講演を頼まれて、終ってから館の学芸の方に案内されて一乗谷へ赴いた。

一乗谷にて前田さん藤田さんと先生記念撮影
○鯖江市にて講演のあと。(鯖江市まなべの館、前田主査の案内にて)


久々の訪問ゆえまず懐かしさが蘇った。こういう訪れも、大袈裟にいえば運命である。神、仏の差配によるものだ。この地への再びの訪れは、こちらが企図したものではない。それだけに、何か有り難さが身に沁みた。
一乗谷は「谷地(やち)全体」が史蹟である。山上にも多くの要塞があったはずだが、そちらはまだ本格的な発掘調査は行われていない様である。前記した鯖江の資料館の学芸の人に案内され、再現された城下の町を歩いたあと、お湯殿の庭園へゆく。朝倉氏御殿跡のすぐ南方の丘上にあった庭趾は前回同様に人影がなく、適当な庭石の上に腰をおろさせて貰って目を閉じると、全ての刻が時空を超え現在に蘇ってくる。いろんな事共が現前するのである。
この湯殿の庭園に朝倉家の当主やゆかりの人々はどんな想いで対したのであろう。誰のことと人名を特定し想起するには、私の知識は貧弱すぎる。むしろそんな作業は無用のことと思われる。
お湯殿庭園のあと、「諏訪殿館趾」の庭園をみた。感想は前のお湯殿と大差ない。”つわものどもの夢のあと”というのはこういう場処をいうのであろう。そこら中が時代の怨霊に満たされている。むしろその寂びの内には、妖気が漂っている。我々がその庭地を「美」と錯覚させるものの主体は、「妖気」である。このことを明確に意識させる遺蹟の第一は一乗谷といって過言ではない。

一乗谷お湯殿跡

さて、今回の訪問は前にも書いたが三度目である。新しくできた「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」の特別展に朝倉市由縁の鎧(胴丸)と兜(総覆輪阿古陀形筋兜)を貸し出し、資料協力したので、その見物がてら『朝倉遺跡』の「歴史の気」を吸いにでかけた。その底の心を端的にいえば、展覧会を出しにしてあの遺跡をもう一度見ておこうというところであった。

展示場となった「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」の建物は結構なものであった。通路に段差があって、足腰の弱った一般の八十超え老人には転倒要注意の造作である。

 戦国の館の造りようは廊下に曲がりを多くし、更に段差をたくさんしつらえた。これは敵の侵入に際して手間ならぬ足手間をかけ音がたつようにするのが目的であったが、この新しい建物がそこまで古建築について考証した上でのことであるか否かは知らない。しかし、足腰、膝の悪い人には面倒な家屋のしつらえであることに間違いない。怪我人が出ないといいが。

 入場者は少なくなかった。その人混みの中を早目に切り上げ、ふたつの庭園を再訪する。

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○諏訪殿館庭園にて(令和5年9月)


 時代の怨霊たちに会うが為である。停止された時代の化性たちは、あの二つの庭に集住して、何ものかを訪れる歴史の縁者たちに訴えているのだ。姿はもとより声もどこからも現実的には聞こえないが、やはりこの世ならぬ何ものかの気配と声を感じるのである。諏訪殿館趾、お湯殿造趾のふたつの庭園をみる。私の感激は、石の配置やその寂び色、おそらく当時も今とかわらない形色(けいしょく)をしていたと思われる姿形にある。この両庭がいつ造作されたのかその正確な時期は素人の自分にはわからないが、畢竟するにこの両庭は今も生きているのだ。誰か彼か、数知れぬ人々の脈々とした血の流れと息遣いが窺える。みればみる程、心は沈静もし、また騒ぐ。これを「昂奮」といってしまえば簡単だが、この心の昂りは他では容易に味わえない。歴史の彼方の貴人たちの右往左往、去就もここでは単なる影絵であり点景にすぎない。それは今も続いている。

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 改めて訪問したこの日は人が少なかった。観光客は資料館の方には多かったが、こちらは閑寂なのが有り難かった。ここを訪れたのはわずか数年前だが、私を取り巻く周囲の人事は悉く変った。そんな中である不変をみるのは安らぎではあるが、その安らぎは「無常」ということである。八十路に踏み込むとこの「無常」は「常住」を伴う。朝倉氏の滅亡に、もはや血の臭いは感じない。ここでは歴史の悲劇はすぐれた一個の美と化している。旅人は無責任な感想を呟いて去るのみである。

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(6.4.1)

前後截斷録 第57回


安土城へ 2


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 わたしのもっともお気に入りのところは、天守閣の石組の北側になるのだろうか。ふだん観光客がほとんど訪れることのない、いわば裏側の石段周辺である。むかしは容易に行けたところだが、今はどうだろうか。今回も帰ってからこんなことを書きながら、たしかめなかったことに気がついた。

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安土城 石垣に利用された古石仏?


 むかし、この場所には焼け瓦の破片がたくさん放置されてあった。ほとんどコークス状になっているものが多かった。焼亡時の火熱の凄さが偲ばれたが、ほんとにそういえばあの場所はどうなっているのか。
安土城の天守閣跡は単に城郭遺構としてだけの意味にとどまらず、安土桃山時代を第一に代表する象徴的古文化財といってよい。

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安土城カエル。左下あたりに注目。

 井伊氏の彦根築城にも安土城趾から大分の石垣を移送した記録があるが、それにしても城垣の中核部分が遺されたことは有難い。これは彦根に入封した井伊氏が配慮したことではない。そこには歴史の偶然という天の配慮が働いたのだ、とわたしは考える。

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摠見寺あと。山頂ながらよく手入れされいることに感心する。

 わざわざそこへ行きながら、上記のようなことがらをすっぽかして忘れ、摠見寺あとを経由、二王門から長い石段を散策して帰ってきた、昔ことばでいえば、わたしとしてはまこと、ムザとした刻を過してきたといわねばならない。その節は「これから佐和山へ」という先行観念があったから、——という言い訳は自分でも容認できない。

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二王門を下から。


 陽は大分西に傾きはじめている。帰途の高速道路の混雑の懸念も、ほんの少し脳裡に警報を鳴らした。

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降り立ったところに群生していた。夕陽に照り映えている。


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(本稿終り)

前後截斷録 第56回

安土城趾へ 1 


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南蛮兜 伝織田信長所用(ほぼ同型のものが、他に現存している)


前章「佐和山残照」のところでも書いていたと思うが、佐和山へ行く前に安土の城あとへ寄った。
別段のこともなかったけれど、これも書いておこう。

安土の城あとへはこれ迄何度通ったことだろう。学生時代から算えるとおそらく100回はこえているだろう。ここには、ふつうの場処にないあるとくべつな明るさと暗さがある。明瞭ではないが——、であるのに截然としてある。ここ、かしこ、至る所に、その明暗は突然顕然しすぐ暗転する。ナマの現実の風景の中に、幻であるはずの秀吉や利家の声音が聞こえたと思うと、木擦れの軋み、竹の破れる響きに忽ち掻き消されてゆく。

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豊臣秀吉邸趾 (2021.11.14撮影)

——又左衛門尉(利家)どのの家来が脇指の小柄を喪ったらしい。筑前(秀吉)殿の門番までもが協力して落し物を捜してやっている。空は蒼いが、南風がきつい。「八つ頃から雨かのう・・・」秀吉の下人らしい男の呟きで、ハッと我にかえる。たしかに雨になるかも・・・。


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安土城石段にて、石仏 (2021.11.14)

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しかしその日は幸に、雨に逢わずにすんだ。

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天守閣趾にて (2021.11.14)

城趾で、みんなが一様にみて悦ぶのは天守のあとだろう。今は整備されているが、近代のはじめの頃はこれが全体土中に埋れていた。
 これの発掘をになった人々はさぞおのれの一挙一動に胸とどろかせ、地面を凝視(みつめ)つづけ、また掘りつづけたのだろう、この土の上に如何なる容(かたち)をした天守閣があったのか。いろいろ復原図が研究者によって呈示されているようだが、もちろんそれは想像上の復原図である。正体はわからない。わからないのが、またいいのである。

わたしは、天守台下の南側に広がる平地、今は雑木林になっているが、この場所に興味がある。ここはいわゆる御殿のあとである。ここに信長常在の居館があり、往時はここから天守閣へ直結する渡り櫓的なものが設けられていたという。天守とこの御殿とは合体した、ひとつ構えの防禦施設になっていたわけである。

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天守閣趾にて、館長と学芸員 (2021.11.14)


(2022.05.27)

前後截斷録 第55回

佐和山残照 二


佐和山古絵図 2
城内から大手口をのぞむ(昭和40年代筆者撮影)


 先日、子供らをつれ久しぶりに安土城址に行った。安土城址のことは別項を設けるとして、このあと我々は彦根へまわった。 彦根には一応家があるが、そこへは寄らず佐和山の城址、それも大手口址を訪れた。理由は別にない。

 既に晩秋の陽も傾いて京への帰心そぞろであったが、なぜか、この、只今の時季、時刻に城址を正面からみたくなったのである。

 ふつうこの時間になると、名神高速道路の帰途は混雑する。彦根インターを午後4時迄に入らないと草津辺りで渋滞にまきこまれるのである。しかし、こたびは、そのことを自身了承する気になった。考えれば前記の如く、私は大手口方面は殆ど無縁であったし、夕陽と佐和山城址の対比を考えると、それを観るにもっとも相応しい季節と時間は、晩秋の日没ちかくを措いて他にないと思われたからである。

 この想いは的中した。車から大手口におり立ったとき、「西山」(せいざん)ともいうべき佐和山城本丸はまさに残照のうちにあった。考えれば傘寿に満たんとするこの年令にして、はじめてこの夕景に接したのである。
五層の天守を構えたという佐和山城本丸は、濃紺の山容をしばらく夕照の中に残していたが、やがてみるみるその影を迫りくる闇の中に没していった。

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 茫々と立ち枯れている薄の一枝を抜いて背後をふり返ると、国道8号線がそこにある。轟音をひびかせ、トラックのむれが東西にすれ違って隙間もない。ヘッドライトの電影が、獄舎跡から三の丸跡の雑木林をフラッシュのように照らし浮かして行き過ぎる。
自分の立っているところは大手門左脇の牢獄跡にちかい。夕方には湿けた地の上に赤茶けた鉄滓が見えていたが・・・。早くもいまは、全ては闇の中におちようとしている。

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日没間近の佐和山城本丸遠望 

 戦斗防禦の要害ではなく、今や交通の要衝となったこの場所、名神彦根インターからおよそ10数分のこの地は、365日眠らぬくるまの繁華の地となった。戦国の三雄、信長、秀吉、家康・・・そして彦根開創の元勲となった井伊直政たちが、この情景をみたら何というであろうか。


佐和山古絵図 1
佐和山古絵図 搦手(彦根側)から(筆者蔵)

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国道八号、佐和山トンネルを西へ抜けたところ。荒神山遠望