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前後截斷録 第57回


安土城へ 2


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 わたしのもっともお気に入りのところは、天守閣の石組の北側になるのだろうか。ふだん観光客がほとんど訪れることのない、いわば裏側の石段周辺である。むかしは容易に行けたところだが、今はどうだろうか。今回も帰ってからこんなことを書きながら、たしかめなかったことに気がついた。

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安土城 石垣に利用された古石仏?


 むかし、この場所には焼け瓦の破片がたくさん放置されてあった。ほとんどコークス状になっているものが多かった。焼亡時の火熱の凄さが偲ばれたが、ほんとにそういえばあの場所はどうなっているのか。
安土城の天守閣跡は単に城郭遺構としてだけの意味にとどまらず、安土桃山時代を第一に代表する象徴的古文化財といってよい。

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安土城カエル。左下あたりに注目。

 井伊氏の彦根築城にも安土城趾から大分の石垣を移送した記録があるが、それにしても城垣の中核部分が遺されたことは有難い。これは彦根に入封した井伊氏が配慮したことではない。そこには歴史の偶然という天の配慮が働いたのだ、とわたしは考える。

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摠見寺あと。山頂ながらよく手入れされいることに感心する。

 わざわざそこへ行きながら、上記のようなことがらをすっぽかして忘れ、摠見寺あとを経由、二王門から長い石段を散策して帰ってきた、昔ことばでいえば、わたしとしてはまこと、ムザとした刻を過してきたといわねばならない。その節は「これから佐和山へ」という先行観念があったから、——という言い訳は自分でも容認できない。

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二王門を下から。


 陽は大分西に傾きはじめている。帰途の高速道路の混雑の懸念も、ほんの少し脳裡に警報を鳴らした。

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降り立ったところに群生していた。夕陽に照り映えている。


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(本稿終り)
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前後截斷録 第56回

安土城趾へ 1 


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南蛮兜 伝織田信長所用(ほぼ同型のものが、他に現存している)


前章「佐和山残照」のところでも書いていたと思うが、佐和山へ行く前に安土の城あとへ寄った。
別段のこともなかったけれど、これも書いておこう。

安土の城あとへはこれ迄何度通ったことだろう。学生時代から算えるとおそらく100回はこえているだろう。ここには、ふつうの場処にないあるとくべつな明るさと暗さがある。明瞭ではないが——、であるのに截然としてある。ここ、かしこ、至る所に、その明暗は突然顕然しすぐ暗転する。ナマの現実の風景の中に、幻であるはずの秀吉や利家の声音が聞こえたと思うと、木擦れの軋み、竹の破れる響きに忽ち掻き消されてゆく。

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豊臣秀吉邸趾 (2021.11.14撮影)

——又左衛門尉(利家)どのの家来が脇指の小柄を喪ったらしい。筑前(秀吉)殿の門番までもが協力して落し物を捜してやっている。空は蒼いが、南風がきつい。「八つ頃から雨かのう・・・」秀吉の下人らしい男の呟きで、ハッと我にかえる。たしかに雨になるかも・・・。


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安土城石段にて、石仏 (2021.11.14)

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しかしその日は幸に、雨に逢わずにすんだ。

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天守閣趾にて (2021.11.14)

城趾で、みんなが一様にみて悦ぶのは天守のあとだろう。今は整備されているが、近代のはじめの頃はこれが全体土中に埋れていた。
 これの発掘をになった人々はさぞおのれの一挙一動に胸とどろかせ、地面を凝視(みつめ)つづけ、また掘りつづけたのだろう、この土の上に如何なる容(かたち)をした天守閣があったのか。いろいろ復原図が研究者によって呈示されているようだが、もちろんそれは想像上の復原図である。正体はわからない。わからないのが、またいいのである。

わたしは、天守台下の南側に広がる平地、今は雑木林になっているが、この場所に興味がある。ここはいわゆる御殿のあとである。ここに信長常在の居館があり、往時はここから天守閣へ直結する渡り櫓的なものが設けられていたという。天守とこの御殿とは合体した、ひとつ構えの防禦施設になっていたわけである。

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天守閣趾にて、館長と学芸員 (2021.11.14)


(2022.05.27)

前後截斷録 第55回

佐和山残照 二


佐和山古絵図 2
城内から大手口をのぞむ(昭和40年代筆者撮影)


 先日、子供らをつれ久しぶりに安土城址に行った。安土城址のことは別項を設けるとして、このあと我々は彦根へまわった。 彦根には一応家があるが、そこへは寄らず佐和山の城址、それも大手口址を訪れた。理由は別にない。

 既に晩秋の陽も傾いて京への帰心そぞろであったが、なぜか、この、只今の時季、時刻に城址を正面からみたくなったのである。

 ふつうこの時間になると、名神高速道路の帰途は混雑する。彦根インターを午後4時迄に入らないと草津辺りで渋滞にまきこまれるのである。しかし、こたびは、そのことを自身了承する気になった。考えれば前記の如く、私は大手口方面は殆ど無縁であったし、夕陽と佐和山城址の対比を考えると、それを観るにもっとも相応しい季節と時間は、晩秋の日没ちかくを措いて他にないと思われたからである。

 この想いは的中した。車から大手口におり立ったとき、「西山」(せいざん)ともいうべき佐和山城本丸はまさに残照のうちにあった。考えれば傘寿に満たんとするこの年令にして、はじめてこの夕景に接したのである。
五層の天守を構えたという佐和山城本丸は、濃紺の山容をしばらく夕照の中に残していたが、やがてみるみるその影を迫りくる闇の中に没していった。

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 茫々と立ち枯れている薄の一枝を抜いて背後をふり返ると、国道8号線がそこにある。轟音をひびかせ、トラックのむれが東西にすれ違って隙間もない。ヘッドライトの電影が、獄舎跡から三の丸跡の雑木林をフラッシュのように照らし浮かして行き過ぎる。
自分の立っているところは大手門左脇の牢獄跡にちかい。夕方には湿けた地の上に赤茶けた鉄滓が見えていたが・・・。早くもいまは、全ては闇の中におちようとしている。

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日没間近の佐和山城本丸遠望 

 戦斗防禦の要害ではなく、今や交通の要衝となったこの場所、名神彦根インターからおよそ10数分のこの地は、365日眠らぬくるまの繁華の地となった。戦国の三雄、信長、秀吉、家康・・・そして彦根開創の元勲となった井伊直政たちが、この情景をみたら何というであろうか。


佐和山古絵図 1
佐和山古絵図 搦手(彦根側)から(筆者蔵)

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国道八号、佐和山トンネルを西へ抜けたところ。荒神山遠望

前後截斷録 第51回

関ヶ原へ 2


古戦跡から少し北西へ進んで奥へ入ると、旧陸軍の弾薬庫であった「玉」という地名の所に到る。50年程前、ここから鍾乳洞が発見され、古戦場に加えて新しい観光地が生まれた。当時地元放送局のPR代理店を経営していたわたしは、この情報を聞きつけ、一番先に駈けつけてラジオ番組のスポンサーになってもらった。この日事務所は無人のようだったが、建物の昔のままが、古びた状態で歳月からとり忘れられたように、残っていた。

鍾乳洞
鍾乳洞管理事務所遠景 2020.6.1

鍾乳洞へゆく小道は、そのまま旧陸軍の㊙︎公道である。
今も、歩哨がやっと一人立てるような雨水を凌ぐ警衛所の建物がのこされている。
道に沿って山手の方には、小さい洞窟がいくつかある。ここが弾薬を収納した場所で、昼なお暗く、冷たくて湿気が強い。

むかしはよくこの洞窟の中へ入った。この洞の中をのぞくのはすこし度胸がいる。こういう所へくると、やや大袈裟だが、人間が原始、本能的にもっていた危険に対する本能を覚醒させてくれるのだ。
たしかに、この中で、数匹の青大将がとぐろを巻いているのや大きなムカデが音をたてて這っているのをみた。

洞にのぞき入って、いつも数秒で、こわいな、外へ出たい-という奇体なスリルを感じて飛び出す。
ヤンチャ坊主の時代を思い出させる、なつかしいところだ。
これらは紛れもない大日本帝国の軍事遺跡で、残存していること自体が珍しい。
戦いに敗けてから、我が国では一時、こういう暗い時代の記憶を殊更に抹消、忘却しようとした気配があったようだ。

現在は露骨に人が人と殺し合う理不尽な殺戮戦から遠ざかってはいるものの、いつまたいかなる拍子で悲劇が再開されるか、わからない。
偶々日本では銃砲から離れた平和が七十年以上続いているが、やがて歴史はくりかえされる。
アゲインはないという保証はどこにもないのである。そのような懸念を忘れないためにも、このような歴史遺産は貴重であろう。

時代の距離が、古戦物の歴史には遠く及ばないから尾崎士郎の『篝火』のロマンはないけれど、使い古された安易なことばでいえば立派な「負の歴史遺産」ということになろうか。
現今はいわば放置された状況で、風化にたえる保存措置が施されるのが望ましいのではないか。滅びゆくものは亡ぶままがいいのかも知れないけれど。

彦根に住んでいた若い頃は、関ヶ原へ来ると帰りは大抵北国街道を湖北の長浜へぬけ、琵琶湖を南へ彦根に至るルートをとっていた。
長浜へぬける途次には息長(おきなが)御陵のある小高い山々が眺められる。落日を背にした御陵の山の姿に、不思議な威厳を感じたものである。


そういう風光をみなくなって久しい。いつか、時に会えば久方ぶりにこの道を走ってみたい。近頃は大抵名神高速道路を一挙に京都へ向かう手抜きをやっている。要するにこぜわしい日々を送っているということだ。本年も昨年同様、健常な心身を維持し関ヶ原を訪れるつもりでいる。

関ヶ原
関ヶ原決戦地記念碑の前にて 2020.6.1

前後截断録 第50


関ヶ原へ 1


むかしから、年に一回ぐらいは必ず関ヶ原へゆく。
別にかくべつの目的があるわけではない。関ヶ原へ、ただ行くだけのことである。行ったら、その辺りの山や野を眺めて、そして帰ってくる。
大抵前年の記憶は忘れている。
二、三日前のことでもきれいに忘れているから、毎度が新鮮である。この年齢になると、「新鮮」というのは格別ありがたい。何をみても出来るだけ新しい発見をするようにして感心し、またすぐ忘れる。

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関ヶ原 家康首実検跡地横にて木登り


行けば必ず訪れるのは三成の陣所跡とされる笹尾山、その前の畑地に建つ決戦場の碑のところ。そして徳川軍勝利の首実検場趾。
三成が本陣を構えた笹尾山から東をみると、古戦場は殆ど一望の内にある。西軍の諸勢の配置を考えると、西軍石田方の配陣は完璧なものである。徳川方は西軍の包囲網の中にある。家康は西軍諸勢の配置を了知した上で、赤坂から出軍し、あえてその包囲網の内に軍を置いた。いわば死中に活を求めた必死必勝の覚悟で、桃配山に即(つ)いていたわけだ。事前に松尾山の小早川軍内応の約諾を得ていたとしても、戦勢の如何によっては、小早川のことである。向背さだかではない。裏切るものは、再び裏切るのである。戦国を生きぬき、勝ち残って来た家康に左様な常識は不要だ。——と、そんなことをとりとめもなく、関ヶ原のあちこちを走ったり歩いたりして考える。いくたびも同じ思いのくり返しだ。

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家康首実検跡地前にて(約十二年前の古写真)


三成の陣所の前、今は一面の畑地になっているが、四十年前毎年初夏は苺畑になった。シーズンが来ると苺狩りの人々で賑わった。
苺狩りは毎年参加のメンバーで、小さかった姫たちをつれて行くのが楽しみであった。
採り放題、食べ放題であるから苺好きにとってはたまらない。もう当分苺という字さえみたくない、と思うほど決定的に飽食して帰るのだが、次の日になると、また喰いたくなる。苺はそれほどの好物であったが、近頃は年のせいかそんな執着から離れた。
それほど思わなくなった関ヶ原の苺畑のことも、あまり聞かない(調べてみたら今も季節が来ると開園しているらしい)。

左近死し、兵庫も死んで苺かな

左近は島左近清興(実名勝猛は正しくないという)、そして舞兵庫。いずれも三成家中の重臣であったが、決戦の時、今は苺畑になっている周辺で戦死した。かつて屍山血河を現代人は行楽している。桑田、滄海のはなしより凄まじく感じるのは、あの関ヶ原の戦いに思い入れがすぎるからであろうか。

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関ヶ原決戦跡地の苺狩り畑にて(約三十年前の古写真)


続く
(2020.11.15)