fc2ブログ

前後截断録 第70回

(十)主水をめぐる人間関係、及び川手家のその後


 今、筆者の手許に大坂夏の陣の功名詮索帳がある。井伊隊士個々の働きを書き表した留書である。その表書には次の様な表題がある。

「大坂御陣慶長十九年寅極月四日同元和元年卯ノ五月六日同七日面々指上候書付之写」

 上記の帳によって、直孝の面前で各士の功名判決が下された。
その場に立ち会ったのはそれぞれ訴訟を申し出た侍衆と、木俣守安、それに老巧の三浦与右衛門、岡本半介である。該件の主査はもちろん直孝であるが、提訴の宛所となった人物は木俣守安で、これを三浦与右衛門や岡本半介らが補った。このことは直孝を補佐する井伊家の中心官僚は木俣であり、直孝—木俣守安のラインで大抵のことは埒が明いたことを示している。

49c2ac_6c7e8ba1b6e943fe912ef0a79c8f1bb0~mv2
木俣守安自筆・出家の砌、江州鏡山にての感懐


 つまりこの二人の中には君臣というより、昵懇な心許せる無二の親友といった間柄であることが知れるわけであるが、そのような井伊家トップの特殊な関係の中において、井伊氏の縁族であるはずの川手主水景倫と直孝には、木俣とは異るある種の疎遠な距離感があった。
ここで前記古記録「大坂御陣慶長十九年・・・・」にある主水と直孝、木俣、岡本の間柄を示す、ある事件を紹介しておく。

 川手主水は五月六日若江表の対木村重成戦で単騎突出、瀕死の重傷を負った。この時主水の左二間程のところ(多分後ろであろう)で主水の負傷を知った斎藤源四郎というのが、これは大変だ、御本陣に知らせなければ、と急ぎこの旨本陣に伝えるべく馳せ行ったら、本陣の入口にいた岡本半介が事柄を聞いた上で「それは無用である」と拒絶した。そんなことはどうでもいい無用じゃ、と半介は一言のもとに主水の危急を斥けたのである。この事件は彼らの関係を記録として今に明瞭に記す証拠資料となった。主水は井伊家首脳から、完全にボイコットされていたのである。

49c2ac_d63bad8157a348eea7aa728c11acae7a~mv2
木俣守安画・岡本宣就賛
​観世音菩薩像

 このような記録をみればわかるが、直孝は何かにつけ主水に辛くあたってきた。根本、二人は相性が悪かったといえばそれ迄であるが、畢竟するところ主水景倫には井伊家の世継(せけい)が大きな時代の流れの中にあって、変則的展開を示しつつあることに気づかなかったということに尽きるのかも知れない。大坂陣以前の主水からみればあまり年齢も変わらない直孝の姿からは、後の栄進は考えられなかったに違いない。あく迄、主水の主君は井伊直継(勝)であって、脇腹から出た直孝など所詮は弁之助(直孝初称)、小僧にすぎなかったのであろう。もとより勘の鋭い直孝には、そんな主水の心中は明々と窺えていた。その結果が現在に至っているのである。

 主水景倫戦死後、家は景倫の唯一子としてのこされた男子が嗣立したが、若くして病没した(この子息の名を「良富」としているが、これは後代に補作された名であって、真正の諱名ではない。しかし、その名は伝わっていない)。今、彦根南河瀬の父の墓の傍に石塔があるが、「河手家譜」には京の鳥辺野に葬ったという別説も記している。

 常識で考えれば川手家と、井伊家は直政が井伊家を再興する以前から関わりがあって、若い直政の乱世に於ける成長を大きく助けたのが先代主水(実名良則とされるがこの名も後代の補作で正しくない。川手主水佑景隆の子)である。のち直政が功なって上州高崎十二万石を家康から預託されたとき、その城代に任じたのがこの先代主水であって、家康のお声掛でその養子となって「主水」を称したのが本稿の主人公、主水景倫である。その後の主水景倫の状況については、既記の通りである。

 この主水景倫戦死に係って、直孝が落胆愁傷し格別の弔いを行った等の形跡は見当たらない。大坂両陣における直孝と主水のやりとり、意趣がらみの交渉はなるほど主従間の問題ではあろう。しかし先代以来の井伊家に尽くした川手家の功績は直孝としても閑却してはならぬことであると思える。それとこれとは別問題である。しかし、直孝は主水の男子に川手の家を継がせてはいるが、その男子の死後川手の家は断絶した。直孝及び川手の関係者(分家川手氏)は主水のあとを考えていなかったらしい。

 つまり主水を後継した男子はその死に臨んで跡をつぐものを予め準備していなかったことになる。これは面妖なことである。侍の家名は代々継続してゆくことが第一義だ。それを川手主水の後継者たるべき人々は配慮していなかったということは、——そこに井伊直孝の意思が大きく働いていたということを意味する。いずれにせよ、川手の宗家である「主水家」はここに断絶したのである。
 これは彦根井伊家創立期における重臣家の、悲劇の第一と考えてよい。

49c2ac_e93920eea6904d29850c7ab32334eff2~mv2_d_2526_2394_s_2
「夜叉掃部」と戦国生残りの猛者連でさえ畏怖した
井伊直孝壮年時の肖像(木像約49cm)

 因に上記川手本家は、幕末直弼によって再興される。再興川手家の初代となったのは井伊氏一門である、新野左馬助の子敦次郎良貞である。この時代、川手氏実名に必要とされていた「景」の字はもはや忘れられ、「良」の字が通字となってしまっている。これも時代の流れというべきであろうか。

 川手家は再興されたが、栄光も束の間であった。全ては軈て押し寄せる時代の荒波に押し流され、古き時代の矜りあるさまざまの群像は、闇に消えていった。


(了)
スポンサーサイト



前後截断録 第69回


(九)開戦——主水の最期



井伊軍全軍右翼に備えた川手隊の主将主水景倫は愈々時節が到来したと感じた。
陽は冲天から輝いて耐えられないほどの暑さになっている。

web用若江八尾
今年6月頃撮影の若江堤、現在は第二寝屋川と呼ばれ、大幅に改修されている。
右手が井伊直孝の陣、川を超えたあたりが主水一番槍(死に至る重傷を負う)の地。
同じ左手側に、井伊に陣場借りをした山口重信の古塚がある。

0414haramaki18.jpg
山口家重代の宝器、黒韋包腹巻(南北朝時代)
(井伊達夫採集史料写真)

若江古図web用
若江堤古図(山口氏墓碑)

 両軍から人馬の音が一瞬消え、これから地獄の修羅場となるであろう戦場が無人の曠野のような静謐に覆われた時、井伊右翼先頭から一騎が堤を超え、敵陣に突入した。主水である。

 かれは先駆突入の直前、槍を右手に高く掲げ、自軍をふり返って——「我は是迄ぞ、者共、懸れ!」と号令した。勿論直孝の攻撃発令は出ていない。無断の先駆けである。隷下の士卒は約1200余。全軍が主水の号令に従ってドーォッと歓声をあげ、堤上から飛びおりるようにして突撃を開始した。

 主水は完全なる単騎突出である。この時前述のような槍を持って指揮したのではなく采を振(ふる)ったという説もある。ともかく、主水は単騎で敵前へ躍り出た。馬は父から最後の餞けにもらった優駿であるから、その速度には誰もついて行けない。

 そして主水はアッという間に敵の槍ぶすまにかかって落馬した。一説に突撃の前、主水は弓や鉄砲を斉射し、整々と馬をのり出したと書いたものがあるが、それは格好づけした講談である。主水にそんな気分的余裕はなかった。「お芝居」など要らない。ただ突出し戦死あるのみである。

 主水は敵の木村勢前衛に襲われ落馬し、集中攻撃に遭った。兜の天辺を太刀で打ち叩かれ意識不明になったところを、敵の武将平塚熊之介が首を掻こうとしたが、主水配下の軍士たちの働きでとも角も主水を味方井伊隊の内に収容した。主水はこのとき既に虫の息で、その夜遅く息をひきとった。二十八歳である。従士の万沢又右衛門、遠山甚次郎、河合弥五介らも主水に続いて勇戦、皆討死した。

444
川手主水大坂陣着用と伝わる朱具足より、兜拡大図
大変な一撃であることがわかる。

FVhfb9NaIAUcXC0.jpeg
金沢21世紀美術館『甲冑の解剖術』展より、川手主水朱具足展示風景

 この一戦における井伊、木村東西両軍の戦いは、川手隊の主水負傷において一時的に井伊軍は崩れたが後半もり返し、終局、井伊軍が敵将木村重成を討ち取って勝利した。

 今にのこる「木村公園」が重成戦死の遺跡とみるならば、木村軍は井伊軍を玉串川向いの堤防下へ追い落とし、大奮斗をしていたことが窺われる。木村軍は井伊軍の芝生(戦場での占有地を示す古語)をかなり奪っていたことになる。

➖————————➖➖➖————————➖


 大坂方木村重成勢と戦って先駆した川手主水の戦い方は、はじめから死を決した突撃であった。これは既述した如く、おのれに非情を以て対した主君井伊直孝に対する意趣返しである。主水にとって、この際最もおのれを際立たせて死ぬことが結果として直孝を大きく困らせる最大の方策であったのだ。

 備えの中でその一翼を担う武将が、軍規に反して勝手な行動をとれば全軍敗北のきっかけになる可能性がある。軍律に於てしばしば抜け駆け、先駆を禁じているのはそれによって軍中の一致が崩れ、攻守共に均衡が破れてしまうからである。
もとより主水は左様なことを十二分に知っている。知った上での突撃と、その結果の死である。

 幸いに井伊直孝勢は木村重成軍を破って重成を討ち取り大勝利したけれど、勝利したからといって直孝は主水を赦す気持ちにはなれなかった。なぜなら、違法とはいいながら主水は敵中一番乗りを果たし、見事に戦死したのである。華々しい活躍と死を果たしたのである。

naotaka1_20221203145545a43.jpg
井伊直孝大坂着伝の朱具足


 勇名は事を知る人々の間ですぐ拡散する。直孝は苦々しい思いである。実際のところ、主水は直孝にみごと復讐を果たしたのである。このことによって、主水対直孝の浮世の意趣は清算された。だが直孝は面白くない。

 暑熱の候である。主水の遺骸は直ちに荼毘に付され、わずかな遺骨のみがのこされた。

 後年、幕府の大元老となる直孝もこの頃は血気壮んな猛将である。主水を城下の寺に葬ることを禁じた。本来は城下長純寺が葬地となるところが、城下南郊の主水采地の一部に当る「大三昧」という荒蕪荒林の地が、永遠の眠りの場となった。これが今に遺された主水の墓であり、彼にとって聊かの慰めとなったのは、息子の墓が共に在るということぐらいであろうか。

河手主水墓
著者再発見当時の主水親子の墓

(続)

※禁無断転載

前後截断録 第68回

川手主水覚書(速報版)

(八)若江堤 -2


古三原(直孝)
井伊直孝佩刀(木俣半弥守明拝領)無銘 古三原


 その様子をつぶさに窺っていた宮内が進言した。
「——かの前軍は足並みも揃わず、槍先も不揃いでござる」
あれを卆いるは若大将とみえまする——と断言した。
更にこの戦いの最も重要な台詞を、宮内は進言する。

「・・・・・・あれなる堤をわれらが先取り致すこと大事でござる」

 直孝の本陣から宮内が指差す川の堤まではおよそ150間ほどもあろうか。川の名は玉串川という。一寸長雨が降るとすぐ氾濫決壊する荒川でもあるが、この時期川水は周辺の用地に灌漑用に送られていたので川に水はなかった。所々に人の頭程の石はあっても、概ねは小砂原であった。
あの堤を先取すべしと宮内が進言したことは、井伊隊全軍に電撃を走らせた。干戈を交えるのは、目前に迫ったのである。
天井川であるから、川の堤防の位置は平地より大分高い。戦術としては至極妥当な献策である。
 
 「——速やかに御発進のこと肝要かと」
大本営ともいうべき家康の本陣からは、交戦許可はおりてはいない。しかしいくさの第一義は、先攻先勝である。勝たねば意義はない。直孝は馬上になり、白い陣羽織の上から締めた腰帯に差した采配をぬいて揮おうとした瞬間、前衛の方で大きな喊声が起こった。
 前衛に遣わせていた使番が戻って来て報告した。

 右先鋒の川手隊が、本営直孝の指揮をまたず玉串川の堤を占拠したという。喊声はこのときのことであるらしい。これにつづいて、川手の左に備えていた庵原隊も堤上に上がった。片方だけの別行動は敗軍のもとである。老将庵原助右衛門朝昌の行動はすぐさま使者によって、直孝に報知されて了解を得ていたが、川手からの連絡は間があいた。
 直孝は心中、焦(いら)ついている。

 二軍にわかれて進んできた敵勢は、やがて左右にわかれて展開しその右軍は若江近くの在所に本陣を置き、前衛は尚も進んでやがて井伊軍前衛と川を挟んで対峙する形になった。井伊勢がこの敵軍を木村重成隊であることを認知した頃、木村の本隊では重成がやや早い昼飼をとり終った頃である。

 敵の兵力は、井伊勢と甲乙はなかったらしい。しかし直孝の軍師岡本半介は味方にこう宣伝した。敵兵の殆どは数日前、一日いくらの駄賃で雇われた連中である。中には明日の夜で契約の切れる者も少くない。所詮烏合の衆なれば、なんの恐るるところもない——と。


DSC03811.jpg
岡本半介井伊家系図
井伊家最古の系図
井伊直政、直継、直孝、三代の井伊家創業に係る藩主に仕え自らも上泉流の軍師として、井伊軍の軍配を預かった名臣岡本半介宣就(無名老翁・喜庵)が寛永二十一年に考証記録した自筆による井伊家系図。
井伊氏の系図としては藩公認現存最古の系図となる。あく迄男系を尊重した古系図のやり方である。次郎直虎時代の生き残りが存在していた時代、また自らも井伊家史の学者を任じていた当代一流の人物が著したものとして、時代の風潮を偲ぶ重要な史料といえる。
井伊美術館HP「井伊家系図」より

(続)

前後截斷録 第67回

川手主水覚書(速報版)

(八)若江堤 -1


 主水が死地を求めて待ちに待った大阪豊臣氏討伐再征は、翌元治元年夏に訪れた。いわゆる大坂夏の陣である。四月六日、井伊軍は戦備を整え軍列整々と彦根を出陣した。その従軍兵数は史料によって区々であるが、その肩の詮索考証は執筆中の『井伊直孝軍記』に任せるとして実戦斗員の総数はおよそ3000人余(総員約五千人余——井伊年譜)であったとみられる。

 四月八日伏見に到着。井伊軍はこの伏見に二十日余り逗留した。この日数は今後要する戦争のための諸用品を整えるために必要な時間であった。いうまでもないが戦いは第一に金銀が要る。その調達は国許彦根ではできない。他に兵糧米や軍馬の飼料、その他欠損するであろう刀槍、甲冑類の予備調達と刀匠鍛冶の手配諸々いちいち枚挙に遑がない。それらが首尾よく整うと、大坂へ向って発足、四月二十九日宇治から淀を経て津田へ進軍し五月三日、大坂へ向う奈良街道に沿って陣を配した。

——


 そしていよいよ井伊直孝や主水の運命を決定する五月六日がやってきた。井伊軍は前夜南河内郡の若江に駐屯し、大坂城より進撃してくる豊臣軍を邀撃する態勢をとった。早朝に全軍朝飼を摂り腰に昼の弁当をつけた。先鋒右備川手主水景倫、同左備庵原助右衛門朝昌(冬の陣で負傷し本陣控えとなった木俣右京に代る)、旗本主将井伊直孝、後備奥山六左衛門という簡勁な陣形は冬の陣以来だが、平場での備立ては先代直政以来のことである。

 朱の甲に金の大天衝と白熊をなびかせた兜を着装した主将直孝の姿をみて、「あら嬉しや 泰安(直政)様の再来をみるようじゃ」——このとき旗奉行に任じていた甲斐武田の老将孕石備前は半分泣くように叫んだとつたえる。


直政 五本菖蒲大天衝脇立付具足(うす緑)
井伊直政所用 五本菖蒲大天衝脇立具足


 しかし直孝はしばらくして兜を脱いだ。ふつう戦前に兜を脱ぐのは縁起が悪いものとされるが、実用時代はそんなことをいわない。あく迄臨機応変である。天辺に穴のないヘルメット型の頭形兜は、頭に密着して暑熱に堪えない。若江表は昨夜意外に寒かった。ところが黎明から気温が上り、周囲に霧が立った。それがはれる頃、斥候に出ていた埴谷宮内(名を「般若」と記すものもあるからハンニャと呼称した。ふつうに読めば「ハニヤ」である)が馳せ戻って、敵影がこちらに向っていることを告げた。

 たしかに大坂城の方角の街道筋に白い土埃りがあがっている。本陣に詰めている岡本半介宣就が問うた。

「——あれなるは敵か否か」
宮内が応える
「——御敵に候」
土煙りは街道の前後から上がっている。周囲は一望田野ないし沼沢ばかりであるから、進軍してくる敵情はよくわかる。
「前後二隊一軍に窺えるが如何」
半介が問うのに宮内が間髪を容れず
「——否(いや)それぞれ別隊に候」
半介は間髪を入れず問う、
「その見切りは何故ぞ」
それに対して宮内が答(いら)えた要意はこうだ。

 本来一軍であるが作戦上二隊に分かれている場合は、後軍の先頭は前軍先頭と同じ行軍列を採らない。ところが彼(か)の軍勢は後先頭も前軍先頭と同じ軍列を以て旗持先頭、次に長槍、弓などと続いている。要点は旗持足軽が後軍も前軍同様に配されている、これはそれぞれが別隊別軍であることを示している証拠であると。——

 しかし半介は尚も問うた。
「——それは敵の策略ではなきか?」
この時宮内は兜の眉庇越しに半介をきっと睨んで云い切った。
「それがし、他家の軍中に於て斥候に出でしこと数多これあれど、いまだおのが見切りを誤りたること一度もこれなし」
これを聞いて主将直孝が叫ぶように
「——宮内の言や見事なり。誤りなからん、イザ、往くべし!」

 直孝はこの時鎧の胴紐の結び緒を、脇差を抜いて切り捨てた。この一戦に勝たなければ再び甲冑の胴をぬぐことはない——という決意を表明したわけである。


(続)

前後截斷録 第66回

川手主水覚書(速報版)

七 主水の怒り-3


掲載用旗
主水所伝の旗(一部)凡そ縦140cm 横45cm


——倅(せがれ)主水はまだまだ未熟の若者にござる。お心入れよろしく頼み申す

これに対し万沢が代表して

「——何の仔細はござりませぬ。お心安らかに・・・あとのことはわれらにお任せあれ」と胸を叩いた。

 この対話の意味するところ、父康安(しげやす)は倅主水の生命の保証を依頼したのではない。経験の少なき若者ゆえ、未練な振舞いはさせてくれるな——という請いである。
対して万沢は何の仔細もない——と答えた。ナニ、命はとうに捨てる覚悟にござる——もとよりそのことについて仔細はあり申さぬ、といったのである。

「——ならば安堵致した」
 康安は一同に向って微笑んだ。父康安が、子の主水や従士たちにみせたこれがはじめての微笑であった。その表情に刻まれた深い皺の数々には、歴戦高名の古疵がかくされている。

 暫くして主水がいった。拙者の馬はどうも走りが鈍うござる——
「——お父上の御自慢のあのアオ(青の馬)を我が一期の餞けに賜りとう存じまする」
 もとより父康安は主水の覚悟を知っている。これを断る理由は康安にはなかった。既に酒宴の場は用意されつつある。盛儀の仕度は整ったのである。康安は諾した。良かろう。わしも何かそなたに餞別をと思案しておったところじゃ。そういって主水の兄重成に目くばせする。

 庭先に重成に牽かれてあらわれたのは一頭の毛艶も見事なアオの馬である。その名にふさわしく漆黒の鋭い馬躯、四肢でさかんに庭の土を蹴り踏む、みるからに馯(かん)が強そうである。頻りに首を上下左右に振り眼を眩(いか)らせてくつわの喰みを噛み鳴らし、早や白泡吹かんばかりである。

 主水はアオの眸を凝乎(じっ)とみつめた。こいつが、俺と最後を倶にする最も信頼すべき朋になる筈だ。因みに主水最期の愛馬となった馬は単に「アオ」と伝えられているが、実際は名があった筈である。しかし今は伝わっていない。



掲載史料の所蔵先は特に断り書きしない限り筆者所蔵に係り、
本稿は著作権法によって保護されています。