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前後截断録 第27回

ある狼狽 ー風評伝説の誕生ー

 関ヶ原合戦の終盤、東軍徳川方勝利の大勢が決したあと、後世まで語り継がれる大一番があった。西軍島津の敵中突破と、それを追撃した井伊直政勢の奮戦である。

 この関ヶ原最後の大舞台がはじまる前、島津軍は主将義弘以下、全軍容易に動かず終始戦況を観望していた。島津は総勢をかぞえても千にみたぬ少勢であった。そしていよいよ西軍の敗色が濃くなり、徳川方勝利がほぼ決定したとみるや、島津軍は粛々、堂々と東軍の只中に割って入り、みごとに敵中を突破したのである。
ところがこの退却にあたって、敵将島津義弘が大変狼狽したという伝説が彦根史話の秘説として伝えられている。
義弘は鎧の栴檀と鳩尾の板を左右とりちがえて着装したというのだ。栴檀と鳩尾の板はいずれも着用者の胸の隙間を防護するためのもので、栴檀の板は馬手(めて-右手)側、鳩尾の板は弓手(ゆんで-左手)側にとりつける。つまり義弘は周章の余り、これを逆に着用してしまった-というのだ。この話は幕府時代、井伊家の一部の人々に語りつがれてきたという。
 私はいつの頃か、とにかく若い時である。この話を彦根の古老から聞かされた時、表面上は頷きながら、心の中では、自信をもって、ウソだと思った。しかし、それを真顔になって否定すると、今後の話が聞けなくなるから、尤もらしい顔をして聞いていたのだが、随分いい加減な話で、わかりやすくいえば、戦国の伝承ばなしではない。現実味がないのである。そして島津家には更に失敬な話である。

島津家伝来大鎧(幕末復古作)
島津家伝来大鎧(幕末復古作)

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この伝説を、その通りだと肯定したら、島津義弘は鎧を着ていなかたったことになる。栴檀、鳩尾の板を伴った甲冑の形式は大鎧である。大鎧の胴本体を身につけてから栴檀と鳩尾の板を取り付けるのだ。つまり主将義弘は戦いのさなかに、武装していなかったことになる。そんなことはあり得ない。まして大鎧など、一軍の将たるものが、着用するに際し、自身で装束することはない。開戦前には側の家来にちゃんとおのれの軍装を整えさせるものである。
そのような戦時の常識は、既に完了しているものだ(兜だけはあるいは脱いでいた可能性もある)。当時の武将の戎装は士の正装である。現代のサラリーマンが三つ揃いのスーツを着るようなもので、さして珍しいことではない。たとえようもないが極端にいえば、その現代人が上衣の上にベストをつけるようなものである。
 島津義弘とその一軍が、西軍石田方の敗北の結果【狼狽】して逃亡したとういうことを【事実化】するため、井伊家のサイドからこのような話しが作り上げられたのだろう。確かに島津勢は馬印を破却し旗を収め踏んでいた陣場を捨てた。知られていないがこの少勢で島津は大砲を持参していた。驚くべきことであるが、その大砲は退却の邪魔になるので現地に遺棄されてた。それが井伊軍によって鹵獲(ろかく)されたことも、このような伝説のための風評確定化に効果があったであろう。
関ケ原戦島津義弘退き口の伏旗
関ケ原戦島津義弘退き口の伏旗

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 以上の事情によって、井伊氏に都合のよい関ヶ原合戦勝利における、ひとつの伝説が成立した。これは戦後大分時を隔てた江戸中期位の創話であろうけれど、島津氏及びゆかりの人々のために言っておく。主将義弘は断じて狼狽、周章などしてはいない。見事な胆略をもって、徳川の大軍中を突破し、いくたの艱難をのりこえ無事薩摩への帰国を果たした。
 このことは既に一般に識られている事実である。しかしこの一聞して笑却すべき幼稚な風評が島津氏にとって忌むべき悪評として一部とはいえ井伊の家中に真実のごとく伝聞されていたことを考えるとき、風評、風聞の正誤の判断のむつかしさと、おそろしさを改めて認識させられるのである。人事の世界、なにごとにおいても、である。(H30.11.11)
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前後截断録 第25回

江戸の大風呂敷
(井伊家桜田小納戸方所用)


俗に「大風呂敷を広げる」という人口に膾炙したたとえがある。
つまりは根蔕のないあるいは大したことがないことがらを大袈裟に誇大していうことをさす。
一方、現実に実際的用途のための大風呂敷がある。
これは誰でも知っている事だがサイズ的には四幅(128cm四方)物からを大風呂敷というらしい。紹介の大風呂敷はおよそ五幅(180cm四方)にちかい実に堂々たるもので、井伊家江戸桜田の上屋敷の小納戸方で用いられたものである。
おそらく他藩で用いられた江戸時代の大風呂敷の現存品などは本品の他にないのであろう。
この品がどうしてこちらに残されたのかは今となっては探索の術がないが、このような江戸歴史の証人は、我が美術館の片隅のいろんなところにある。彼らは存在を主張しない。年老いて忘れられたようにいる。そしていつの間にかどこかへ移動させられ、埃にまみれひっそりとある。

さて、この風呂敷は元気な頃どんな扱いを受けていたのだろう。
正式には国許彦根ではなく井伊家江戸邸、それも桜田とあるから上屋敷本邸の小納戸において専用されたものである。
「納戸」というのはふつう物品を蔵置、管理する屋邸中の部屋、あるいはそれらを大きく包蔵する家屋をいう。納戸方はその収蔵品の取扱管理に任ずる役職であるが、大納戸、小納戸とふたつに区分される。
一般的には大納戸という役職名は使わず、ただ納戸役と書くが(水戸藩には大納戸があり甲冑や武装衣裳等はこの役名において管理された)これに対するものが小納戸役であった。
井伊家の場合殿様専任の小納戸役から、ただの「小納戸」までいろいろクラスがあるが、この風呂敷はその「ただ」の方の役係りが用いた。
小納戸役は被服や調度類の管理が仕事の主体であるが、ただの小納戸といっても殿様の縁族の小納戸品も所轄したから、役方としては卑職ではない。禄高としては2百ないし4百石級の武役席の侍がこれに任じた。
時には井伊一族の手許金をも預託されていたから重要な職責にあったわけだ。
しかし、いったいどんなものをどれだけ運び入れ、運び出したのか。
この風呂敷はその大きい容敷の中に大獄の立役者、三人衆ともいうべき長野主膳、宇津木六之丞、そして大老直弼・・・・かれらの跫音をいまだ秘め包んでいるようにわたしには思える。
そして万延元年三月三日雪の朝の凶刻の恐怖のざわめきも・・・・
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前後截断録 第13回

井伊氏関係二書の出版
(黒田基樹氏著『井伊直虎の真実』と大石泰史氏編『井伊直政文書集』)


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ひとつは資料提供協力をした黒田氏の本である。本物の直虎を冊中の一部分紹介ではなく、まとめて一書とした本がやっと出たという感じである。当方発見の新史料(『守安公書記』)を直虎の出身や徳政説明の根元にすえた新著である。
 まだ一度通読しただけで、軽々の感想は語るべきではないが、前記のように新出の当家史料を踏まえ、井伊直虎は当方発表と同様今川系の青年武将で女城主ではなく男だと断定している。但当方所蔵の史料の使用のしかたに残念なところもあり、また新史料もその要所はまだ数行の発表の範囲しか出していない状況なので、その他未公開の井伊家史料をも合わせて検討すると、細部においては見解の異る部分がある。しかし、新しい信憑性ある史料を認識し、率先して研究に挑戦しようとする姿勢は大切なことである。

 序でながら著者が刊行を急いでいる本書『ほんものの井伊直虎︱ホントの本当』であるが、『井伊直弼史記︱若き日の実像︱』と重なっているので、なかなか捗らない。同じやるならあれもこれも書き入れようと欲張っているのも遅れの原因かも知れぬ。別段「大河ドラマ」中に一稼ぎというような色気をもった絶対的企画でもない。伏櫪の老馬の仕事ゆえ、マイペースでやろうという存念である。いずれにせよ、今のところ井伊直虎の正体に迫った本格的書き物は原史料および井伊家文書類の原本を直接的に使用した本書だけであろう。聊か大袈裟にいえば日本歴史最大の勘違い︱男女取り違え︱の史実化は明確に訂されなければならない。大いに意味のある仕事だと考えている。


今一書は現在戦国有数の人気武将井伊直政に関係する文書の集成である。井伊家といえばとり上げられる人物は、つい先頃まで「直弼」だけであった。それが戦国ブームの到来と、また大河ドラマなどにもとりあげられることになって、やっと歴史の表舞台に登場させられるようになった。

たったひとつの直政伝記である当方の『井伊軍志』発刊以来それから何と30年もの時間を要したのである。まこと命なりけり――である。よろこばしいことであり、そういった中でも本書の刊行は、時宜を得た出版といえるだろう。井伊直政関係文書の集成が今迄出ていなかったことも、よく考えれば不思議なことである。研究者にとっては大変貴重な史料集である。

勿論、本書に洩れている重要文書も既に知られているものの範囲に於いて尚何件もあるけれども、それも致し方なき次第であろう。遺漏なき出版物などありはしない。早くやることはともかく肝要事である。「直政」と聞くと他人事でないから、嬉しい。今更いうことでもないが、氏はNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の時代考証を担当しておられる。

前後截断録 第8回


近頃の甲冑武者の絵は・・・

お蔭様で超多忙な毎日多謝多謝。
われら同年知人は、毎日が日曜日で、時をあかすのに苦しんでいる連中が殆どなのに、ホント、よろこばなければいけない。

しかし、一ツ事に多少詳しくなると、八ツ下りになってきているモノゴトにあきれるようなことも少くない。
たとえば、拙者も史料的に多少協力した某直虎本の武将の切腹の図。その武将は井伊の誰かなのだろうが(もちろん良くわかっているのだけれども敢えてこう書いている)、今まさに腹に短刀をつきさそうとしている。勿論、肌ぬぎになっているのだが、その武者の肩に不思議なことにヨロイの袖がついている。
この袖が、この位置についているということは、どこかに定着させる装置がなければならない筈だが、鎧の胴を脱いでいるから袖は固定できない。つまり肩から落ちてしまう道理である。両籠手を指しているから、その籠手元につけられると解釈しているのであろうか。しかし、そうだとすると、籠手の肩元に当る部分が下へ下っているから、袖のつき様がない。つまり袖の(この場合大袖)はどこにもつき様がなく宙に浮いていることになる。

腹を切るのに胴は脱がなければならないが、袖を籠手につけさせる手間ヒマの面倒をかけてまで腹は切らない。まず物理的にむつかしい。袖はズリ落ちてしまう。
まわりくどいようだが要するにあり得ない。正しくないのだ。

介錯人が切腹人の右斜前に立っている。とんでもない立ち位置である。画の例だと、この介錯人は上手に首を落とすことはできない。かくじつに失敗する。こんな下手をされると殆ど覚悟した筈の武将は苦痛のためその辺りを這いずりまわって醜態を曝すことになる。これは常識だ。つまり切腹人は首の斬られようも知らないというわけだ。介錯人は切腹人の左斜め後に立たなければならぬのである。

最近、歴史ブームで、甲冑着用の武者の姿をよくみるが、まず大抵はよろしくない。体の前の部分はともかく、背部、特に専門用語でいうと「押付―おしつけ」がちゃんと描けていない。胴と草摺と腰帯の関係も空想的である。

小堀鞆音筆井伊直政甲冑像
小堀鞆音筆井伊直政甲冑像(弦廼舎画迹より)

むかしの挿絵画像の絵にはそこに省略があっても、もとがわかってデッサンが利いているから、本筋を外していなかった。近頃の挿画画家は甲冑そのものの構造を知らず、胡魔化しの絵でその場をしのいでいるから、まちがいだらけである。勿論甲冑の構造を知っても、時代による形式の変遷を知らないから、これまた誤りが続く。兜の形式など気の毒なほどにひどい。

もう少し勉強して欲しいと思うのはまさか、拙者ひとりではないと思うのだが如何。

前後截断録 第7回

直弼さんと直虎君

 この間まで、井伊直弼について、その若き日の実像を中心に一冊にまとめるべく突貫作業を続けてきたところが、その間に例の井伊直虎さんの新事実を記した文書記録がみつかり、そちらにかかり切りの状態になってしまった。直弼さんの方は20代後半から採集してきた資料をもとに直弼の真像をあきらかにするものである。これまでの直弼のイメージががらりと変わること必至なのだが、アトもう少し、胸突き八丁で停頓である。
焦ってます。

 ホントのところ、直弼も誤解だらけである。これも実体を明瞭にすると吃驚する人も多いと思う。しかし、直弼や直虎、たとえば青年武将井伊直虎君の苦悩というもの、若き日の直弼もそうだが、これを悪気のない諧謔で、ひとつのドラマに仕上げるような人はいないだろうか。

そんなことはアンタがしたらどうじゃ――という外野席の人もいるだろうが出来たら苦労はしない。

それはヤボだ。こちらはそんなヒマがない。たとえば直弼さんは門から家へ入る歩数にまでこだこだわる人であったことなど誰もしらないだろう。直虎君も生まれがいいばかりに駿河府中から井伊谷なんかに赴任させられ地元の曲者連中に翻弄されづづけた。挙句親爺の関口氏経に叱られ、言うことを聞いたトタン、今川がポシャる。

嗚呼なんたるツキのない人生か!!