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『野田浩子著 井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)』贈本をうけ

思うことの草々
(三)



(二)はこちらから

もうひとつ、またここで野田氏は重要な誤りを犯していることを書かねばならない。この『公用方秘録』がどこの所蔵のものであるか、一切記していないことである。史料の出処をここでも彼女は故意的に省略し、その所在を漠然とさせているのだ。

本当にこれは困った行為である。せめてここでは『公用方秘録』の成立とその所在背景及び史料の本来の身許についての解説が絶対的に必要な場面である。執筆者として最も履行することを閑却してはいけない、史料の出典を省いているのは言語道断の行為ではなかろうか。つまりは、「親切なひとこと」があるべきと思うが、彼女の同史料に対する理解はないから、前記のごとく研究者にあるまじき切捨てを平然と行ってしまう。この「平然」が怕(こわ)いのである。
実の処、 『公用方秘録』についてはもう充分の研究検討が施されているから彼女の新しい口入(くにゅう)の余地は、実はどこにもないと思えるのである。「歴史」を研究するものがまず心得の第一にしなければならないことは、その対称がヒトであれモノであれ、いずれにしてもまず取扱を丁寧にしなければならない。わかりやすくいえば史料そのものとその所在者に対する「感謝」と史料に対する「博愛」の心を持つべきである。もとよりその加減は難しいが、「典拠不明、浅薄独断」は自己制御を利かせて慎むべきだろう。氏の執筆態度はいかにも薄情である。そこに「歴史」に真摯に対(むか)う者の優しい視線はない。

歴史に対する「優しさ」とは何か。それは「公平な視線」である。当然ながら自己の好悪による史料の選択解釈に、公平な目線はない。歴史は活物(いきもの)である。ひとつの事実にはいろいろな要素が絡み込んでいる。複雑であるが、それを解き量り実態をみるには、公平な秤と匙による加減が必要である。
多分この人はこの調子で、どこかで自説をのべ、その出典には殆ど拘らず、必ずしも正しくない偏った歴史の指導教育をしていくのであろう。どうしてもそのように推測させられてしまう。文章表現上の振舞いを見ていると、そうとしか思えない。
花鳥風月の上に独断を馳せるのは勝手だが、史上の人物の事蹟を述べた歴史的史書類の出所や所蔵先を記さず無断転用し、自儘な解説を施すことは許されないと思う。本稿一読の識者はこの、歴史への違反性をよろしく諒解して頂けると思う。

 また、贈本してくれた「井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)」の著者野田氏には、それが因で、本稿の「果」が生まれた故、皮肉なはなしだがとりあえずは遅ればせながら御礼申し上げなければならないだろう。だが著書の寄贈を受けたからといって、その著者及び著書の問題性に口を緘するわけにはいかない。歴史叙述は空想物語ではない。それを述べる上では、典拠史料の引用は不可欠である。その場合当然その所在は明確にすべきであり、刊行上梓に臨んでは時に所蔵者の許諾が必要であろう。
いうまでもないが、歴史は「述ベテ作ラズ」である。この警句があるゆえんは往々にして「歴史」がその著す人間の独断によって都合よく取捨選択され、結果としていわゆる「述べて作られる」からである。かかる場合しばしばその根拠は示されない。根拠がない独断専決が多いから、そうするしか術がないのである。正々堂々の道を行きたい。格好をつけるようだがこれは歴史を研究し叙述する者への標語であり、警句である。
寄贈された野田氏の本を本気で拝読すれば、まだ他の問題が出るおそれなきにしもあらずであろうが、この度は取り急ぎ以上である。もっと早く発表したかったが、日常の繁忙に追われ、多日を要してしまった。末筆ながら改めて野田氏の率直な反省と更なる御精進を希う次第である。('24 2.1)



(補記——本稿を発表しようとした矢先、歴史に詳しい知人が野田氏のHPを教えてくれた。読んだのは井伊の筆頭家臣となる木俣守勝の事績をのべたところだが、その典拠資料は『木俣土佐武功紀年事記』というもので、彦根城博物館蔵の写本に拠ったものである(原本井伊蔵)。しかしこの書は私が考証した結果、残念ながら偽書であることがわかった。

3
木俣家古記録の内 
武功紀年自記

4
木俣家古記録の内
国語碑銘記(木俣守長述)
(いずれも井伊蔵)

 なぜ偽書なのか、遺憾ながら野田氏は夢にも気づかないし、また確認することはまずできないであろう。史料の真否及び考証は自己の文章に引用するまでに、充分に尽くされなければならない。因みに「木俣文書類」の大方は只今私の所蔵となっており、『新修彦根市史』にもかなり大部に引用を諾して利用してもらっている) 

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『野田浩子著 井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)』贈本をうけ

思うことの草々

(二)

(一)はこちらから

 『公用方秘録』というのは一口にいえば幕末の大老井伊直弼の政務要録である。直弼の懐刀として、その側近にあって有能ぶりを発揮した公用人宇津木六之丞(景福)が、直弼と幕閣その他大名諸士たちとの幕末紛騒の政治情勢を細やかに記した秘事録である。従来彦根井伊家に伝存した公用方秘録(写本含めて数種あり)が正規のものとされていたが、私の発見した『公用方秘録』(昭和50年、影写本として200部限定発刊)の出現によって、前者彦根井伊家本が大きく改竄されたものであり、私蔵のものが正本を写した清書本、つまり唯一正確な『公用方秘録』であることが調査の結果公表された(但し私には以前から本書の性質や価値が判明していたが当時の諸事情[主に直弼に係る信仰的讃仰]により暫く真実公表を避けていた。

2
「秘録」中唯一の原初の歴史を伝えるもの。
(清書本の写本——井伊蔵)

1
上記の複製本(250部限定——解説及び発行 井伊)

 その真実のところは既に公表されているが、ここでは煩雑なので省略する(詳細は HP「公用方秘録(大老直弼の重要政務要録)について」)。また当時京都女子大学助教授で元彦根城博物館学芸員であった母利美和氏は『歴程集—井伊達夫蒐古展覧—(2006年刊 井伊美術館)』に寄稿された内に、私蔵『公用方秘録』の新たに見つかった真実部分を読んだ時の驚きを次のように記している。

以下、聊か長きにわたるが、原文を引載する。

 「・・・目の前が真っ白になるほど衝撃的であった。驚きで霞む目を疑い、何度も何度も繰り返し読み直した。よし、よしと、それ以外の部分にも異同はないか頁をめくって見ると、そこかしこに異同が確認された。これは大変なことになると思った。
博物館に取って返し、他の井伊家本とも校合してみると、異同があるのは『彦根藩公用方秘録』だけであったが、井伊家本の中には、墨で抹消されたり、墨や朱筆で加筆されたものが確認され、しかも、例の条約調印の記事の部分は、数頁に渡り、別紙により差し替えられていることが確認できたのである。
これは改竄だ。従来、井伊家では「公用方秘録」の草稿原本と考えられてきたものが、 また吉田常吉氏も、名著『井伊直弼』の中で図版に採用して紹介された「公用方秘録」は、この墨で抹消されたり、墨や朱筆で加筆されたこの史料であった。もしかして、明治十八年(一八八五)に井伊家から明治政府に提出する際に、加除改竄されたものではないかとの予感が頭の中を巡った。
「公用方秘録」と称される史料は、井伊家の公用人自筆本以外に、東京大学史料編纂所の所蔵分の写本だけでも五本が確認される。
このほか、管見の限りでは、彦根藩井伊家文書に二本、宇津木三右衛門家文書に一本、木俣清左衛門家文書に一本(井伊達夫氏所蔵の『彦根藩公用方秘録』)、宇和島伊達家文書に一本、京都大学文学部に三本、お茶の水図書館の成簀堂文庫に一本、福井県立図書館の越前松平家文庫に一本、佐倉藩堀田家文書に一本が伝存している(毛利家文書にも一本あるが未見)。しかし、問題は井伊家の公用人の自筆本は、安政五年四月から同年九月五日までの部分 (東大所蔵写本では前二冊の部分)を欠いていることである。それ以降は、宇津木ら公用人自筆の原本が「彦根藩井伊家文書」の中に確認された。
そのため、諸写本の調査をおこなったところ、『彦根藩公用方秘録』以外はすべて、東大史料編纂所の写本と同じ系統であり、従来井伊家で「公用方秘録」の草稿原本と考えられてきたもの、つまり明治時代の加除改竄のための稿本と同じであることが判明した。
すなわち、安政五年四月から同年九月五日までの部分については、唯一彦根藩公用方秘録』だけが、今や失われた原本の記事を伝えていることが判明したのである。ただし、『彦根藩公用方秘録』は原本の抄録と考えられ、その事実は、「井伊達夫」氏が「公用方秘録解説」の中で、「本書と井伊家蔵の公用方秘録(の既に版になった部分)とを比較してみると、詳しい部分もあれば省略されている箇所もある。だが重要な記述は微細に記されており、省略されている点は肝要の部分でないので史料的に不足にはなっていない。」と、述べておられるところからも、氏自身は気付いておられた。ただ、氏は傍線部にあるように「詳しい部分もあれば」と指摘し、二箇所を例示されたが、敢えてそれ以上踏み込んで、他に詳しい部分が存在する理由には触れておられない。
しかし、それには当時、次のような経緯があったという。当時の彦根では、戦後、昭和二十三年頃から井伊家史料が研究者に公開されはじめ、彦根の郷土史研究者の間では、「大老史実研究会」が発足するなど、直弼の復権のための活動が活発となっており、彦根の人々にとって井伊直弼は「神」のような存在となっていた。昭和四十年代でもその状況は変わらず、 氏が新たに入手された『彦根藩公用方秘録』を、その活動の中心人物の一人であった末松修氏に見せると、「今これが公けになると大変なことになるな、直弼さんが直弼さんでなくなってしまう」と、暗に今は公表の時期でないことをほのめかしたという。当時、これが改竄なのか、あるいはたんに異なる記載のある写本なのか、 末松氏がどう判断されたのかは不明であるが、直弼復権の活動には不都合だと考えたのであろう・・・」(歴程集から母利氏の言)

 この際における母利氏の驚きと危惧は適中していたのである。そこから拙蔵の『公用方秘録』の本格的調査が行われることになった。——〈引用文中、私の旧姓は現姓に改めた〉

 幕末史と井伊直弼研究に必読の重要資料である「公用方秘録」の調査の成果は2007年に『史料公用方秘録(彦根城歴史博物館叢書⑦(B5版上製385頁)』として一本にまとめられた。これが現在に至る迄『公用方秘録』の研究書として最も大部かつ完成されたものである。この本に係る出版元の内容説明は次の如くにある。

公用方秘録表紙
(彦根城博物館叢書第七巻——同書発行2007年)


——大老井伊直弼の側役兼公用人宇津木六之丞が中心となって編纂した、直弼の大老政治の記録。幕末維新の第一級資料を、公用人たちの自筆原本と維新政府へ提出された写本とを比較校訂し、全文を翻刻。

上記の説明はやや不十分で正確さを欠いているが、本稿では「幕末維新の第一級史料」というところが認識されればよい。
当時本書編集刊行に関わった人々は下記の通りである。

佐々木克(京都大学名誉教授)研究班長・編集代表
班員
青山忠正(佛教大学教授)落合弘樹(中央大学助教授)
岸本覚(鳥取大学助教授)羽賀祥二(名古屋大学教授)
校訂 鈴木栄樹(京都薬科大学助教授) 母利美和(京都女子大学助教授)
ゲスト研究員
佐藤隆一 青山学院高等学校教諭
事務局
渡辺恒一 彦根城博物館

上記『公用方秘録』における井伊直弼による条約調印前後の事情について、彼女は同書の中で以下のように批判し断じている。

『・・・・・・「公用方秘録」の述べるところは直弼没後に編纂された後世の記録であり、この状況(書中における幕末諸事件と直弼及び周囲の人々の係り具合といっているのだろう——井伊註)の信憑性について検討が必要であろう・・・』

といい、そして却って福井藩の中根雪江の著になる『昨夢紀事』の方を宛もより信じられるが如く記している。しかし『公用方秘録』は宇津木六之丞が直接大老の時の状況のいちいちをリアルタイムに記したもので、そこに対する編集上の差し引きはあったとしてもそれは読むものに対する理解に寄せた配慮であって、『公用方秘録』そのものは決して「後世の記録」などではない。

それは前述『史料公用方秘録(彦根城歴史博物館叢書⑦(B5版上製385頁)』を少し気を入れて読めば一読了解されるべきものである。それを彼女が、「検討を要する後世の書き物」などと簡単に評していることは、浅薄極まる独断であってまさに同書の価値を貶める、認識不足の偏向的批判である。
むしろ『昨夢紀事』の方がその名の「昨夢」と示す通り、実正は回顧録であり一種の昔語りである。これこそまさに「後世の記録」である。念のためいうが、これは福井藩重臣としての中根氏の仕事を貶しているのではない。歴史記録としての真実の「ことがら」の発生とそれを「記録」するという着手行為実行との間の時間差をのべ、『公用方秘録』に対する誤った評価を作ろうとする論者の故意的な判断と作為を批判したまでである。何とも甚だしい本末転倒である。

 おそらく野田氏は『公用方秘録』のさまざまを、本腰入れて読んだことはないとしか考えられない。井伊家幕末史を語る上で、絶対閑却できないこの『公用方秘録』をそのようにしか価値判断、評価できないのはつまり該書を読みこなしていない——ということである。でなければ、故意の貶言と言わざるを得ない。『公用方秘録』の刊行に当って調査、研究に当った専門家、関係者諸氏は野田氏の断定論によるとまるで貴重な時間を無駄に費やしたかの如くである。この人達は研究に値する史料を正当に研究し、刊行したのである。これを「検討を要する」などと上からの目線で、斬捨て同然の一言で安易に批判することは「寔に無礼」であると云っていい。検討は上記「公用方秘録」を調査した人々によって存分に尽くされている筈だからだ。

 世の中何事においても「識者は欺かれない」。だが幕末史に係る知識が、彼女の著すレベルのガイド書の範囲を出ないことしか知らない一般の人々は、その語るところを読んで、やはり事実と思ってしまうだろう。欺かれるというと聞こえは悪いが、つまりそのようなことである。何らかの故意や既成概念をもった他者によって、錯誤を受けるということはわかりやすくいえば欺かれてしまうということであろう。私はそういう点を危惧する。


(三)に続く

『野田浩子著 井伊家:彦根藩(家からみる江戸大名)』贈本をうけ

思うことの草々
井伊達夫

(一)


去年のことになるが、頭書の本が、著者野田氏本人から贈られてきた。珍しい奇異なことだとみてみたら、到来した本の頁の間に印刷された一枚の文書があり、私の所蔵史料を引用したゆえの贈本であることが記されてあった。引用の箇所は井伊家第四代直澄の大老拝命の史的根拠を、私蔵の文書に拠ったからであるが、その詳細は『新修彦根市史』の巻六第129号——とあるだけで、原典所蔵者の如何は記されていない。この点もいわばいかにも愛想がなく、史料所蔵者及び一般の読者には不親切である。もしこの項を本気で検索しようと思うと、当該箇所を載せた『新修彦根市史』をもっていないと駄目である。一般人は関係する自治体の本格的な図書館にでも行く他ない。つまりかれらにとっては、この史料のまことの所在がわかりづらいのだ。これが当代の歴史史料における出典引用の扱い方の一般らしいが、余り賛同できない。その他著述者の気配りについても改められて然るべき箇所は少くないと思える。しかし、このたびはそのことについて云々することはしない。問題は別の所にある。

この人は以前彦根城博物館に勤めていたことがある。私の記憶の中では同所勤務者の中では「新参」に属する方で、つき合いというほどのことは殆どない。けれど、その殆どないという数少ない係りの中にある野田氏の印象は決してよろしくない。その原因の大なるものというべきものは、他人の所蔵になるものの「史料」の取扱い方にあった。
たとえば、貸与した展示史料の所蔵者名をあえて省く。これは展覧会に当って、展示の位置や扱い、それに図録の取り扱い上などで必須の義務的行為なのだから、所蔵者の名前の提示を「忘れました」などという不念の事故は、まずあり得ないといっていい。否、左様なことがあっては展示責任者としての資格を問われる大問題だ。ゆえにこのことは「故意」と考えざるを得ないのである。
 この件に関しては後日、彼女の上司や本人からの詫び状が届けられた。もう昔のこと故正確な記憶がないが、この時は上司の方が直接持参されたと思う。本人は手紙上の詫びだけであったと思うが、ことは複数回なので一度くらいは本人も来たと思う。いずれにせよ上司たちの苦労を察して、それらのことは一応了として、それですませた。なるだけ寛大な処置をとったのである。しかし、このようなことは前記の如くその後も続いて、一度きりで終わらなかった。

 私は彼女の論文等を殆ど読んだことはない。意識的にそれは避けた。なぜならおのれの好悪によると推量される記述上の差別、及び史料の取り扱い方等に問題が見えてしまうと嫌だなという思いがあって、乗り気になれなかったからである。念のためいうが、これは必ずしも私だけがその対称者とは限らない。同じような扱いを蒙っている他の研究者の人もいるだろう。何れにせよ彼女のものを必読しければ日本歴史は勿論、彦根藩井伊家の史学勉強上不可欠の事案であるという程のことは全くない。だから読む必要性はないのである。読んで不愉快になるより、読まぬがましと思うのは当然であろう。

 もうそのいちいちは忘れたが、そんな歳月の移り変わりのうちにも相変わらず史料の無断引用が続けられていたらしい。前記したように、他にも彼女の詫び状がのこっているからである。懲りないのである。
近頃、第三者的に、冷静になってこれらの件を振り返ってみると、彼女自身にこのような行為を為すことが学者としてやってはならない、あってはいけないことだ——という人間としての常識的な自覚が欠如しているのではないか、と考えるようになった。なぜかというに、他人の持ち物である所蔵史料類を断りもなく、かつ持ち主を明かさずにおのれの書き物にのせることは、一種の盗用といわれても仕方のないことである。そのような恥ずかしい行為に、本人はまるで反省がないように窺えるからである。
 
 この人は癖として、こういうことを自省もなく平然とでやってしまうのだ——。そのように考えて、これ迄は閑却してきた。

 私の末娘は大学の二年生になるが、その学則の中に論文作成に当たっての細目の注意書きがあって、ここにいちいち引用しないが史料類の使用や所蔵者名の如何についてはその旨を明示しなければならないことが厳しく記されてある。これに違反すれば、一発でアウトらしい。一般の生徒に於てこれである。いわんや歴史関係の著書を出版するような研究者とされている人ならば尚更である。このことはわざわざ念を入れて書き記すまでもない。研究者たるものの常識である。

 だけどこの人は、今後も一応「専門の学者」として将来的には認識されて行くのであろう。出版社の編集者及び関係者、メディアや一般素人の読者には、この人の史学研究上の第一義的な作法の問題点はわからないだろうからである。そんな具合だから史料の誤った勝手解釈などは平気に思える。迷惑なことではあるまいか。

 そんな埒もない思案の果てに、今回のことも面倒ゆえ不問にしようと考えて、贈られてきた本をめくっていたら、終りの方に直弼のことに係って『公用方秘録』という文字が、行間にチラとみえた。これから次項にのべるところは、本稿の肝腎な部分であるが、それはこの本が贈られてきた結果判明したことがらだから、その点についてはともかくも良かった、と思わなければならない。彼女にとっては贈呈した菓子に、熨斗を忘れたのはいいが、筐底に蟲がわいていたということが判明したというような塩梅である。皮肉なはなしであるがこの例えは誤っているだろうか。否、むしろ上記の例え話では贈った人の不注意のみに因るものとは限らない。菓子屋の不念によることもある。いずれにせよそこには故意の意識はない。しかし野田氏の場合は単純な失敗ではないだろう。かかる彼女の行為は過去に於て表面反省を装いながら、尚是正されていない。これが今後も易々として続けられては私のみならず他の研究者や史料所蔵者の迷惑も計り知れないとの怖れから、本稿を公表するに至った。人間「改悛」の情と「素直な研究心をもつ」ことは大切である。



(二)へ続く

前後截断録 第27回

ある狼狽 ー風評伝説の誕生ー

 関ヶ原合戦の終盤、東軍徳川方勝利の大勢が決したあと、後世まで語り継がれる大一番があった。西軍島津の敵中突破と、それを追撃した井伊直政勢の奮戦である。

 この関ヶ原最後の大舞台がはじまる前、島津軍は主将義弘以下、全軍容易に動かず終始戦況を観望していた。島津は総勢をかぞえても千にみたぬ少勢であった。そしていよいよ西軍の敗色が濃くなり、徳川方勝利がほぼ決定したとみるや、島津軍は粛々、堂々と東軍の只中に割って入り、みごとに敵中を突破したのである。
ところがこの退却にあたって、敵将島津義弘が大変狼狽したという伝説が彦根史話の秘説として伝えられている。
義弘は鎧の栴檀と鳩尾の板を左右とりちがえて着装したというのだ。栴檀と鳩尾の板はいずれも着用者の胸の隙間を防護するためのもので、栴檀の板は馬手(めて-右手)側、鳩尾の板は弓手(ゆんで-左手)側にとりつける。つまり義弘は周章の余り、これを逆に着用してしまった-というのだ。この話は幕府時代、井伊家の一部の人々に語りつがれてきたという。
 私はいつの頃か、とにかく若い時である。この話を彦根の古老から聞かされた時、表面上は頷きながら、心の中では、自信をもって、ウソだと思った。しかし、それを真顔になって否定すると、今後の話が聞けなくなるから、尤もらしい顔をして聞いていたのだが、随分いい加減な話で、わかりやすくいえば、戦国の伝承ばなしではない。現実味がないのである。そして島津家には更に失敬な話である。

島津家伝来大鎧(幕末復古作)
島津家伝来大鎧(幕末復古作)

~・~・~・・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

この伝説を、その通りだと肯定したら、島津義弘は鎧を着ていなかたったことになる。栴檀、鳩尾の板を伴った甲冑の形式は大鎧である。大鎧の胴本体を身につけてから栴檀と鳩尾の板を取り付けるのだ。つまり主将義弘は戦いのさなかに、武装していなかったことになる。そんなことはあり得ない。まして大鎧など、一軍の将たるものが、着用するに際し、自身で装束することはない。開戦前には側の家来にちゃんとおのれの軍装を整えさせるものである。
そのような戦時の常識は、既に完了しているものだ(兜だけはあるいは脱いでいた可能性もある)。当時の武将の戎装は士の正装である。現代のサラリーマンが三つ揃いのスーツを着るようなもので、さして珍しいことではない。たとえようもないが極端にいえば、その現代人が上衣の上にベストをつけるようなものである。
 島津義弘とその一軍が、西軍石田方の敗北の結果【狼狽】して逃亡したとういうことを【事実化】するため、井伊家のサイドからこのような話しが作り上げられたのだろう。確かに島津勢は馬印を破却し旗を収め踏んでいた陣場を捨てた。知られていないがこの少勢で島津は大砲を持参していた。驚くべきことであるが、その大砲は退却の邪魔になるので現地に遺棄されてた。それが井伊軍によって鹵獲(ろかく)されたことも、このような伝説のための風評確定化に効果があったであろう。
関ケ原戦島津義弘退き口の伏旗
関ケ原戦島津義弘退き口の伏旗

~・~・~・・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

 以上の事情によって、井伊氏に都合のよい関ヶ原合戦勝利における、ひとつの伝説が成立した。これは戦後大分時を隔てた江戸中期位の創話であろうけれど、島津氏及びゆかりの人々のために言っておく。主将義弘は断じて狼狽、周章などしてはいない。見事な胆略をもって、徳川の大軍中を突破し、いくたの艱難をのりこえ無事薩摩への帰国を果たした。
 このことは既に一般に識られている事実である。しかしこの一聞して笑却すべき幼稚な風評が島津氏にとって忌むべき悪評として一部とはいえ井伊の家中に真実のごとく伝聞されていたことを考えるとき、風評、風聞の正誤の判断のむつかしさと、おそろしさを改めて認識させられるのである。人事の世界、なにごとにおいても、である。(H30.11.11)

前後截断録 第25回

江戸の大風呂敷
(井伊家桜田小納戸方所用)


俗に「大風呂敷を広げる」という人口に膾炙したたとえがある。
つまりは根蔕のないあるいは大したことがないことがらを大袈裟に誇大していうことをさす。
一方、現実に実際的用途のための大風呂敷がある。
これは誰でも知っている事だがサイズ的には四幅(128cm四方)物からを大風呂敷というらしい。紹介の大風呂敷はおよそ五幅(180cm四方)にちかい実に堂々たるもので、井伊家江戸桜田の上屋敷の小納戸方で用いられたものである。
おそらく他藩で用いられた江戸時代の大風呂敷の現存品などは本品の他にないのであろう。
この品がどうしてこちらに残されたのかは今となっては探索の術がないが、このような江戸歴史の証人は、我が美術館の片隅のいろんなところにある。彼らは存在を主張しない。年老いて忘れられたようにいる。そしていつの間にかどこかへ移動させられ、埃にまみれひっそりとある。

さて、この風呂敷は元気な頃どんな扱いを受けていたのだろう。
正式には国許彦根ではなく井伊家江戸邸、それも桜田とあるから上屋敷本邸の小納戸において専用されたものである。
「納戸」というのはふつう物品を蔵置、管理する屋邸中の部屋、あるいはそれらを大きく包蔵する家屋をいう。納戸方はその収蔵品の取扱管理に任ずる役職であるが、大納戸、小納戸とふたつに区分される。
一般的には大納戸という役職名は使わず、ただ納戸役と書くが(水戸藩には大納戸があり甲冑や武装衣裳等はこの役名において管理された)これに対するものが小納戸役であった。
井伊家の場合殿様専任の小納戸役から、ただの「小納戸」までいろいろクラスがあるが、この風呂敷はその「ただ」の方の役係りが用いた。
小納戸役は被服や調度類の管理が仕事の主体であるが、ただの小納戸といっても殿様の縁族の小納戸品も所轄したから、役方としては卑職ではない。禄高としては2百ないし4百石級の武役席の侍がこれに任じた。
時には井伊一族の手許金をも預託されていたから重要な職責にあったわけだ。
しかし、いったいどんなものをどれだけ運び入れ、運び出したのか。
この風呂敷はその大きい容敷の中に大獄の立役者、三人衆ともいうべき長野主膳、宇津木六之丞、そして大老直弼・・・・かれらの跫音をいまだ秘め包んでいるようにわたしには思える。
そして万延元年三月三日雪の朝の凶刻の恐怖のざわめきも・・・・
25_0903