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前後截断録 第42回

金十郎と米盗人 —③—
旧著『彦根藩侍物語』より



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茶事に関わる井伊直孝の書状


先程まで脇差の鯉口きって、上座の新右衛門をニラミすえていた金十郎だが、こう親しく直孝から言葉をかけられると頭のてっぺんまで感激してしまった。殿様の座り方などもう、どうでもよい。

「どうじゃ、こんどのことはなんとか了簡して納めてくれまいか・・・・・・」

金十郎もう直孝の言葉など聞いていない。殿様から、もうそれだけ言ってもらえば彼としては何もいうことがないのである。今回のことは金十郎が悪いのだが、それを直孝は責めもしないで助けようとしている。また余談にわたるが、大体、この八田家の血筋は感激家の系統らいしい。ずっと後のことになるが、こんな話がある。

時は四代直興治政のころ、彦根藩士としてもいわゆるお歴々の連中が金に困り連書して、こともあろうに殿様の直興に借金を申しこんだ。直興はまだ藩主になったばかりで若く、彦根に善政を敷こうとして張り切っていた矢先であったから、これには大きなショックをうけ、かつ大いに怒った。連署の連中に対する直興の処分は厳しかった。彼ら全員に改易を命じたのである。借金を申し込んだ藩士たちにしてみればまさかこんな大処断が下るとは、夢にも思っていなかったが上意となれば致し方がない、おのおの親戚縁者におくられて彦根を去った。

時代は漸く元禄の士道退廃期に入ろうとしていた。直興としては近頃少々たるんでいる藩士どもに久昌公(直孝)の精神にもどれと活を入れたつもりだったのだが、時代がちがっていたおかげで、直興の公儀(幕府)に対する評価がわるくなってしまったのである。当時は幕府の隠密が各城下に放たれ、諸大名の動静が彼等によって微細に報告されていた。その報告書が『土芥寇讎記』という聊かややこしい表題になってのこされている。要するに藩主の治政の善悪を記したいわゆるエンマ帖であるが、この中で直興は藩士追放の一件で悪い評価をうけている。それはとにかく、この藩主に対する借金依頼は延宝六年(一六七八)のことなのだが、その藩士の数は七十六人で、平均一人当たり百両もの借金を申しこんだのだから只事でないことは事実で、既にこの頃から藩士の財政は苦しくなっていたとみてよい。

話が余談から余談へわたってしまった。何処まで本筋の話をしていたのだったか・・・・・・そう、八田家は感激家の血統ではないかというところで話が脇道にそれたのだった。他でもない、この追放七十六士の中に後代の八田金十郎も入っていたのである。

後代の八田金十郎も追放されて早や二十年程の歳月を他山にすごした。ある日のことである。その日金十郎は月代(サカヤキ)をそらせていたのであるが、彦根の親類から早飛脚というので何事かと手紙の封を切って驚いた。それにはお家(井伊家)への帰参が叶うから急ぎ支度して帰彦せよ、と書かれているではないか、夢ではないかと、半ば以上あきらめけていた金十郎は、我れと我が眼を疑ったと同時に目の前が急に真ッ暗になり、それから先、金十郎は何もわからなくなってしまった。金十郎は感激して昂奮したあまりそのまま死んでしまったのだ。いわゆる頓死である。そのあたりから考えると、どうやら八田家の血統は感激して激情する筋らしいのである。

さて初代の金十郎、直孝の言葉で、もうすっかり感激してしまっている。

「殿ッ!勿体のうござる。私めが間違っており申した。お許し下され」

大きな両の眼から涙をこぼさんばかり。
直孝は金十郎の言葉を聞くと、こんどは彼を新右衛門の前へ連れていって、

「新右衛門——、鬼の金十郎が詫びたぞ、もうこのあたりで仲直り致せ・・・」

二人を引き合せた。
新右衛門は驚いた。金十郎が、あの傲慢な金十郎がうなだれている。

「——元はと申せば、この金十郎が悪うござった。新右衛門殿の申し越しを粗略に扱い、ロクに吟味も致さず、米盗人を捨て置いたことは・・・・・・」

なかば声をつまらせ金十郎は続ける。

「・・・・・・・さりながらその真偽はとに角、たかが米一俵の盗ッ人とがことで、金十郎、新右衛門に詫びを入れたと聞こえてはもはや槍先の御用は相立ち申さず、正木舎人、日下部三郎右衛門殿をはじめ、大坂十本槍の衆にも合わす顔がござらん。詮方なくこの上は新右衛門殿を打ち果しそれがしも腹切って果てるより外なしと覚悟致したところ、かくの如く殿様直々のおとりなしを賜り申した、只今ではもう何も存念はござらん、誠に詫び入り申す——」

米泥棒にかかわっての八田金十郎と町奉行大久保新右衛門の一件は、直孝直々の扱いによって、漸くカタがついた。金十郎が人に弱みをみせたのはこれが最初にして最後であったという。同じ頃事件の張本人である米泥は牢屋の中で高イビキをかいて眠っていた。(了)
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前後截断録 第41回

金十郎と米盗人 —②—
旧著『彦根藩侍物語』より



 一年が経った。
 ある時、長浜で一人の盗賊がつかまった。彦根へ護送されるのを新右衛門が調べると、南部の生れだという。しかし、どうもクサイ、余罪があるだろうというので、拷問にかけてみると、はたして一年前の四十九町の米屋へ入った泥棒だと判明した。

スキャン 3 井伊直孝像

左 彦根城京橋通(左折後方旧四十九町辺り——1950年代 筆者撮影) 右 井伊直孝像



これに勢いを得たのは新右衛門だ。その盗人を、更にきつく取り調べてゆくと、去る年まで八田金十郎家にいた中間とわかった。サア、これで、彦根一の豪傑と、天狗になっている金十郎に一泡ふかせることができる。早速新右衛門はこの顛末を金十郎に伝えさせた。
 新右衛門の使いがきたとき、金十郎は丁度昼飯をくっていたが、取り次の者からこのことを聞くと、飯のわんをなげだし、急に立ちあがった。仁王のような量の眼がなかにすわっている。

「新右衛門め、俺にひどい恥をかかせおった。このままでは俺の一分がたたぬ」

 金十郎の顔は戦場で敵と生死を賭して斗うときの顔だった。家人はこんな顔を見たことがないから動顛して、金十郎が何をいったのかはっきり聞えない。金十郎はそのままノッシ、ノッシと武器蔵へ入ると、大坂以来のヨロイびつを自身でもちだしてきた。家人もここまできて、ようやく金十郎が何をしでかそうとしているかがわかった。驚いて制止するが、耳をかさばこそ、長押の槍をわしづかみにした。この槍は木村重成の武将山口左馬助と飯塚太郎左衛門を首にした名だたる槍だ。作は大和の金房政次。これで新右衛門を串刺しにするのだという。
 常識で考えれば理は大久保新右衛門にあり、金十郎が間違っている。しかし、この頃は侍の維持がことさら重要視された時代である。特に直孝は武張った意地っ張りの侍を好んだ。だからこの頃の彦根家中には強情ものの侍がワンサといたと思えばよい。金十郎はその代表者と自分で決めている。間違っていようがいまいが後へは引けぬのだ。
 使いのものから金十郎がヨロイをもち出し、自分を殺すといきまいているのを聞いた新右衛門は、これもまた何時もの冷静さを忘れて本気になって怒り出した。

(俺を誰だと思ってやがる!元は武田信玄公の家臣だぞ、温和しくでてりやアいい気になりやがって、売られたケンカなら値よく買ってやる)

 新右衛門、町奉行の威権にかけて八田金十郎と一戦する気になったのである。忽ち双方の身寄りや部下が集ってきて、大騒動になってきた。当然、家老達の耳にもこの事が入る、時の家老は木俣清左衛門(二代目守安という)庵原助右衛門、長野十郎左衛門、脇五右衛門、岡本半介の異常五人である。二手に分れて八田、大久保の両人をなだめてみたが、共に一徹ものだから、とても言う事をきかない。早急に手を打たねば大事になるので、やむなく五人の家老中はこれを殿様の井伊直孝に告げた。この時、直孝は機嫌が悪かったという。これは『円心上書』という古書に記されているが、直孝の機嫌があまり良くないので、家老たちはこの一件をお耳に入れるかどうか迷ったが、いたし方なく事情を説明し解決方を乞うた。
 もう夜になっていた。噂によると、八田家も大久保家も門前に甲冑を帯した番卒を配し、大篝火をたいていまにも一戦に及びそうな気配であるという。
 家老一統から一件を聞いた直孝は、何を思ったのか直ちに家臣全員に総登城を命じた。総登城の太鼓の音には流石の家老達も驚いた。

(殿様は何をなさるおつもりか?)

 ものの四半刻もしないうちに御殿の広間には井伊家の家臣全員が集結した。八田金十郎も大久保新右衛門も総登城となればしかたがない。ケンカは後廻しである。
 しばらくして直孝が出座した。直孝によって定められた席順どうりに整然と着座した家臣一同が平伏すると直孝は、
「夜中の登城大義であった。一同面をあげよ」
低いがよく透る声でいった。一同が顔をあげると、直孝はしばらく黙然と腕を組んだままで口を開かない。

「・・・・・・・・・」

一同これから何事がはじまるのかと固唾をのんでいると、直孝の頰ひげが大きくゆれ動いた。


 井伊直孝の頰ひげの濃くて長いのは幕府内でも有名である。江戸では、かっての加藤清正の長い頰ひげに対比され、このひげのおかげで美事なアダナをつけられている。
 曰く、

「夜叉掃部(やしゃかもん)」

直孝のヒゲの立派さと幕閣内における彼の権力をもじって、柳営内のどこかの茶坊主がつけたものだろうが、成程「夜叉掃部」とは聞くだけに恐ろしそうで強そうなアダ名である。
 その夜叉掃部がスタスタと上段から下りてくると大久保の前でドッカリと武者アグラをかいたのである。

「この度のことは聞いたぞ、新右衛門——しかしのう、金十郎がいかなことを致しおっても、其方も知っての通り大坂での槍一番の武功者ゆえ咎めるには惜しいのじゃ、わかるかの、新右衛門・・・・・・・」

「——・・・・・・」

「それ故な、この度のことは余に免じてどうか堪忍してやってくれまいか・・・・・・」

新右衛門も直孝から直々にこうまでいって頼まれれば否やはない。第一、侍としての面目も充分にたつ。畏まって平伏した。すると直孝は、よしよしというように、さも満足げな顔をして立ち上ると、こんどは新右衛門より末席に着座している八田金十郎の前へやってきた。彼の前で片ひざついて中腰の姿勢になった。
直孝は新右衛門と金十郎とをはっきりと自分の座り方によって区別している。この場合、新右衛門には武者アグラという、いわば武士として対当な座り方をし、金十郎には中腰という相手を下げた対し方をしたのである。これによって今回の一件はあきらかに金十郎に非があるということを直孝は無言のうちに示しているのである。当時のサムライは、どんなに粗野なものでも、こういうことは充分承知している。金十郎も例外ではない。

「金十郎、変わりなく壮健で嬉しいぞ・・・・・・・ところでこのたびの一件じゃが、まあいろいろ許しがたい事もあろう。じゃがのう、新右衛門が無うては町の仕置ができんようになるんじゃ、それでは余が困ることになる。のう、わかるじゃろ・・・・・・」

(続)

前後截断録 第40回

金十郎と米盗人 —①—
旧著『彦根藩侍物語』より



 さいきん当館の学芸員から、表題の私の旧著が古書価格で34000円にも高騰していることを聞いて驚いた(昭和四十七年,1972年発刊 450円)。
 この本は、三十の頃彦根時代の私が彦根藩井伊家の古記録「圓心土書」や他の史料に載せられている実際譚をもとに書いたものである。もちろん今は絶版になっているが、この中の史話のひとつ「金十郎と米盗人」が、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」(第二十四巻 昭和五十九年,1984年発刊)に紹介され、更に叙述の手法を賞揚されたことは、手前味噌を憚らぬ表現ながらいってみれば、私の「文章武功」の最も大なるものとなっている。忘れ難い有難い記憶である。ただ今では希覯な本の仲間入りをして、容易に入手することがむつかしくなっているらしいので、本著の代表として本章を数回に分載紹介してみたいと思う。(19.12.27)
名称未設定 名称未設t定
左「街道をゆく」二十四巻表紙  右 左記中表紙



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 井伊直孝が藩主のころ、城下四十九町の米屋へ盗人が入り、倉の中から米一俵を盗んで逃げるという事件があった。あくる朝、気がついた米屋が町奉行に訴えようとして表へでると、なんと道の上に点々と米粒が落ちて、それがずっと続いている。
「ハテ、米粒を落してゆくとは、間抜けな泥棒も世の中にはおるものじゃテー」
 米屋は口の中で、一人ぶつぶつというと、半分ねぼけ顔で落ちた米粒の後をたどって行くと、これがまた、ご丁寧に複雑な曲り道も、線を引いたように続いているではないか。気がつくと米屋は何時の間にか、いかめしい長屋の続く侍屋敷の真っ只中にいた。この当りは大体三百石以上の、家中でもいわゆるお歴々の侍方の屋敷のあるところでもある。
(妙だな、なんでこんな方に米のあとがあるんじゃろ——)
米屋がそう思った時、延々と続いた米粒の軌跡が消えた。
 丁度そこは侍屋敷の門前である。
(誰様のお屋敷かな——)
 ゆっくりと顔をあげた米屋は、その門柱にかけられた表札をみて危うくアッと声をあげそうになった。
 その表札には墨くろぐろと、
「八田」と書かれている。
 この辺で八田金十郎の名を知らぬものはない。神君家康公でさえ金十郎の名を知っていた。大坂夏の陣の立役者で、彼はこの戦いで木村重成の武将山口左馬助と弓頭の飯塚太郎左衛門両名を討ちとっている。采配とっての兵の駆け引きはできないが、槍をとっての一人働きでは彼の右にでるものはない。井伊直孝治世のころには、彦根家中に金十郎程度の剛のものは何十人いたか知れないが、彼らにとって残念なことは、戦場で金十郎が討ちとった程の大ものに恵まれなかったことである。なんといっても実績のある金十郎には叶わない。だから金十郎は自他共に許す彦根第一の豪傑であった。
「当家へ押し入りました米泥棒は、八田様のご家来らしゅうございます」
 米屋は直ちにこの事を町奉行に注進した。
 時の町奉行は大久保新右衛門という、名奉行である。町奉行の大久保新右衛門が調べてみると、なる程、米屋のいう事に嘘はない。新右衛門は米盗人を詮議するよう早速金十郎にかけ合った。すると金十郎、いいかげんな事をいうなといって相手にしない。この時新右衛門は町奉行の輩下を金十郎のところへかけ合いにやらせたのだが、少しも金十郎の方が相手にせぬので、今度は新右衛門自身が八田家へでかけることにした。
 八田金十郎と大久保新右衛門の知行高を比較すると、この頃金十郎は五百石で、一方の新右衛門は千二百石である。禄高、身分とも新右衛門が上になる。しかし、新右衛門には金十郎のような華やかな武功はない。いうところの能吏であって、大坂の役のときは彦根にあって直孝の留守を預かった。吏務に長じているので直孝はこの新右衛門を大変重く用いている。文官タイプの大久保と、典型的な武人である八田とはもともと余り仲がよくない。そんなわけで、町奉行の大久保新右衛門が八田家に直々犯人逮捕のかけ合いにきても、金十郎は新右衛門を半ばバカにしてロクな挨拶をしない。今も玄関に仁王立ちになったままこういうのである。
「なんちゅうこというんじゃ。わしとこに米盗人がいると?阿呆なこというてくれるなや、ウン、なる程わしンとこには居候もまぜていろんな者を抱えとるけど、それはイザちゅうときに殿様のお役に立てんがためじゃ。夜討ち朝駆けの名人はおっても、米盗人など一人も抱えておらん!早う引きとってくれ。違うところを探すんじゃナ」
 ところが新右衛門、ホシはこの八田家の屋敷のなかにいるとにらんでいるから、簡単には引き下がらない。第一、直孝様の町奉行を玄関先であしらうとは何事か。大分腹が立ってきた。しかし、内へ通れともいわれないのに、いくらなんでも屋敷の中へ押し通るわけにもいかぬ。仕方がないから、じっと黙って金十郎をにらみすえていると、今度は金十郎の方がじれてきた。玄関の敷居にドッカとアグラをかくと、
「新右衛門殿も強情な仁じゃな、わしが家はな、自分は黒めしくっとるが、家人にはいつでも、白めしくわしとるんじゃ、そいつらが、何を好んで米など盗むのじゃ、ノウ、頭のよい新右衛門どのならわかろうが」
 腹がたつが新右衛門は引き下がらざるを得ない。米を、たった一俵の米を、盗んだ犯人は事実、八田家にいたのである。しかし金十郎はそんなことはしらない。いや、知ろうとしないのだ。仮にこの八田家にその犯人がいるとしても、金十郎にそんなセンサクをする気はない。
(彦根一の槍仕が、たかが一俵の米を盗んだ野郎を詮議できるか、アホらしい——)
 この事件はそのまま立ち消えになりかけた。(続)