前後截斷録 特別回
河手主水の墓をめぐって、
創作された「墓守」の美談
(全編まとめての掲載は井伊美術館特設ページにて、近日公開予定です)
序
1、 河手主水良行について
2、 忘れられていた河手主水父子の墓
3、 歴史常識に反する交誼譚
4、 刀剣贈与譚の不審
5、 河瀬神社へ
6、 神社寄進「主水刀箱」の始末
7、 銘(迷)刀のゆくへ
8、 河手主水墓地決定の経緯と真実の墓守について
9、 根拠なき「墓守」と「拝領刀」始末 —結語にかえて—
(一)河手主水良行について
——実名は良行ではなかった——
最初に、本稿に出てくる墓の主人公である河手主水良行については過去の彦根史関係の拙著の所々でふれているので、ここではごく簡略にその生涯を記しておきたい。
主水は、彦根藩草創期における井伊家の重臣の一人である。家康の旗本松平康安の三男として生まれ、若年にして井伊家重臣河手主水良則の養子となって家を嗣いだ。これは家康の直命によるものである(実はこの裏に、河手家内で一騒動があったけれども、本論から外れるので今は書かない)。
大坂冬の陣に初陣。夏の陣には木村重成勢との対戦に突出戦死した。激戦奮闘の結果の如く記したものがあるが、事実は主水自身覚悟を決めた自死に近い戦死であった。この裏には、競争相手である木俣守安と、冬の陣にかれの肩を持った主将井伊直孝に対する意趣がえしによる自尽であった。幸いにして井伊勢はこの一戦に勝利し、敵将木村重成を討ち取ったからよかったものの、主水の行動は一歩まちがえば総敗軍になる危険な一挙であった。時に年歯二十八歳(『河手系譜』筆者蔵)。
子に良富(もう一基の墓主)がいたが、若くして死に、家は断絶した(普通なら養子が立てられて家は続くものであるが、前記のごとく井伊直孝との意趣があって家は断絶した)。
現存する主水の墓標の立つ所は、本来人間が葬られるべき寺社ではない。城下を遠く隔てた不毛の荒林の中である。その墓を守り菩提を弔ってきたのは江戸期にも残り続いた分家の河手藤兵衛家の人々であった。今もその子孫の人々もおられる筈だが、あえて表には出てこられない。
主水良行は、実は万斛の怨みをのんで死んだ。その生涯については、収集した井伊家の多数の正確な史料をもとに、まともに正面から取り組んで筆刻することを、実は主水の霊には疾くから誓ってある。しかしかれの伝記は、今は詳述しない。これにはいろいろ訳がある。ひとつは出典を記さず、内容を平気で剽窃されるおそれがあるからである。引用するのはいいが、典拠を記さず、断り書きもしない者は「著作権」の侵害者であることくらい、モノを書くものは知るべきである。理由はもちろん他にもあるが、これは私自身の問題で今は書かない。近い将来を期す。
尚「河手主水」の姓の表記は、この時代「河」の字ではなく「川」を以て記されることが多いが、維新まで続いた分家・川手氏一族の「河手」姓への回帰の希望を察了し、また幕末新しく創設された「本家河手主水家」の再興の節における表記に従い「河手主水」と統一表記することにした。
また実はこれは大きな問題であるが、河手氏の実名の通字に用いられている「良」の字は初代良則、二代良行らの頃は彦根の史徴には明確ではない。全て後世の表記であって、実名は全く違うことがなが年の調査の末、或る文書記録によってこの度判明した。河手主水「良行」なる人物は、本当は存在しない。判明した実名は全く異なるものである(「慶長十年七月十六日付連署状」——筆者収集井伊家文書)が、本稿では江戸編集の同家系図に従って「良行」で通すことにする。
考えてみれば、「良行」という実名がかれに冠せられたのはいつからか。本モノの主水の霊は、一体これをどうみていたのであろうか。今後も私が実名を公表しない限り河手主水は「良行」で書かれるわけである。


2.河手主水良行戦死の際着用所伝ある朱具足(—彦根藩士海老江家旧蔵—)
生々しい刀痕が残る。前掲の「具足」よりこちらの方が時代的には適合する。この具足は、彦根赤備えの中でも屈指の戦傷ある古具足である。海老江家は河手家の縁族である。
(全編まとめての掲載は井伊美術館特設ページにて、近日公開予定です)
創作された「墓守」の美談
(全編まとめての掲載は井伊美術館特設ページにて、近日公開予定です)
序
1、 河手主水良行について
2、 忘れられていた河手主水父子の墓
3、 歴史常識に反する交誼譚
4、 刀剣贈与譚の不審
5、 河瀬神社へ
6、 神社寄進「主水刀箱」の始末
7、 銘(迷)刀のゆくへ
8、 河手主水墓地決定の経緯と真実の墓守について
9、 根拠なき「墓守」と「拝領刀」始末 —結語にかえて—
——実名は良行ではなかった——
最初に、本稿に出てくる墓の主人公である河手主水良行については過去の彦根史関係の拙著の所々でふれているので、ここではごく簡略にその生涯を記しておきたい。
主水は、彦根藩草創期における井伊家の重臣の一人である。家康の旗本松平康安の三男として生まれ、若年にして井伊家重臣河手主水良則の養子となって家を嗣いだ。これは家康の直命によるものである(実はこの裏に、河手家内で一騒動があったけれども、本論から外れるので今は書かない)。
大坂冬の陣に初陣。夏の陣には木村重成勢との対戦に突出戦死した。激戦奮闘の結果の如く記したものがあるが、事実は主水自身覚悟を決めた自死に近い戦死であった。この裏には、競争相手である木俣守安と、冬の陣にかれの肩を持った主将井伊直孝に対する意趣がえしによる自尽であった。幸いにして井伊勢はこの一戦に勝利し、敵将木村重成を討ち取ったからよかったものの、主水の行動は一歩まちがえば総敗軍になる危険な一挙であった。時に年歯二十八歳(『河手系譜』筆者蔵)。
子に良富(もう一基の墓主)がいたが、若くして死に、家は断絶した(普通なら養子が立てられて家は続くものであるが、前記のごとく井伊直孝との意趣があって家は断絶した)。
現存する主水の墓標の立つ所は、本来人間が葬られるべき寺社ではない。城下を遠く隔てた不毛の荒林の中である。その墓を守り菩提を弔ってきたのは江戸期にも残り続いた分家の河手藤兵衛家の人々であった。今もその子孫の人々もおられる筈だが、あえて表には出てこられない。
主水良行は、実は万斛の怨みをのんで死んだ。その生涯については、収集した井伊家の多数の正確な史料をもとに、まともに正面から取り組んで筆刻することを、実は主水の霊には疾くから誓ってある。しかしかれの伝記は、今は詳述しない。これにはいろいろ訳がある。ひとつは出典を記さず、内容を平気で剽窃されるおそれがあるからである。引用するのはいいが、典拠を記さず、断り書きもしない者は「著作権」の侵害者であることくらい、モノを書くものは知るべきである。理由はもちろん他にもあるが、これは私自身の問題で今は書かない。近い将来を期す。
尚「河手主水」の姓の表記は、この時代「河」の字ではなく「川」を以て記されることが多いが、維新まで続いた分家・川手氏一族の「河手」姓への回帰の希望を察了し、また幕末新しく創設された「本家河手主水家」の再興の節における表記に従い「河手主水」と統一表記することにした。
また実はこれは大きな問題であるが、河手氏の実名の通字に用いられている「良」の字は初代良則、二代良行らの頃は彦根の史徴には明確ではない。全て後世の表記であって、実名は全く違うことがなが年の調査の末、或る文書記録によってこの度判明した。河手主水「良行」なる人物は、本当は存在しない。判明した実名は全く異なるものである(「慶長十年七月十六日付連署状」——筆者収集井伊家文書)が、本稿では江戸編集の同家系図に従って「良行」で通すことにする。
考えてみれば、「良行」という実名がかれに冠せられたのはいつからか。本モノの主水の霊は、一体これをどうみていたのであろうか。今後も私が実名を公表しない限り河手主水は「良行」で書かれるわけである。


2.河手主水良行戦死の際着用所伝ある朱具足(—彦根藩士海老江家旧蔵—)
生々しい刀痕が残る。前掲の「具足」よりこちらの方が時代的には適合する。この具足は、彦根赤備えの中でも屈指の戦傷ある古具足である。海老江家は河手家の縁族である。
(全編まとめての掲載は井伊美術館特設ページにて、近日公開予定です)
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