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前後截斷録 第49回


時代劇は東映!伍
中村錦之助、東千代之介、
そして大川橋蔵のこと 2



 映画「宮本武蔵」の連作中、常に優れていたのは刀戟のシーンである。代表的決闘場面は一乗寺下り松と、般若坂の決闘のふたつであろうか。とくに圧巻なのは一乗寺の方であった。
 決闘そのものがあったか否かについて、歴史雑誌で考証したことがある。当時の記録が存在しないから史料的にいえばノーであるが、スクリーンでの決闘の再現は、いかにも真実味があり、琵琶湖の西、安曇川近辺に再現された下り松が、朝露の田野に高く聳えている光景は今もなお瞼の裡に新しい。
このときの錦之助の働きは、文字通り獅子奮迅のさまであったけれど、その身の足腰は鍛錬された筋肉にはいかにも乏しく、華奢で、実戦にはとても耐えられない筈のものであったが、よくいえばそこを錦之助は演技力でカバーしていたといえようか。カメラの写実と冷酷さに克てる俳優はそんなにいない。かれはその例外に属する数少ない俳優のひとりであった。
錦之助の俳優としての素晴らしさは、言ってしまえばここまでであったと言っていいかもしれない。以後のTVを含む作品での錦之介の演技は、類型的、ワンパターンで新味がなく、一般的に魅力と称されるその人の独自のしぐさ、セリフ廻しの癖などが錦之介の場合、みょうな臭みに感じられたのは私だけであろうか。個人の感想としても残念である。


東千代之介

「東千代之介 東映チャンバラ黄金時代」(1998年3月発行 ワイズ出版発行)より

 東千代之介は、錦之助と時代劇デビューが殆ど同期であったと思う。錦之助同様、『笛吹童子』『紅孔雀』で一躍銀幕のスターとなったが、この人は錦之助とくらべると一段不器用な役者さんであった。何を演(や)っても同じ表情、同じ体勢で、泣いても笑っても定型を外れない。外すことができない。いつも勇気リンリンといった感じで、セリフをいうたびに喉仏がせわしく動く。少年ながら自分の喉仏も同様に動くので、はじめの内はその動きも魅力の一つであったが、演技の一遍性に食傷して、喉の仏さまの動きまでが聊か鬱陶しく感じるようになった。
そんなことをいいながら、千代之介は好きなのである。ファンというものはまことに勝手なものだ。

 印象にのこる作品はあまり思い出せないが、強いていえば侍ニッポン(1955年公開、佐々木康)の新納鶴千代である。
 尊皇攘夷の嵐吹きすさぶ幕末、水戸藩の侍として生まれた鶴千代が井伊大老襲撃の密謀にまきこまれる。いわゆる桜田門外の変の直前から、母にお前の父は井伊直弼だと知らされ、そこからクライマックスシーンへと映画は展開する。
原作は誰か忘れたが、史実を根底から無視した、まさにこれも荒唐無稽の代表作、単なるおはなしである。何にしても、その頃の私には井伊直弼が扱われていることが嬉しかった。
彦根銀座街裏の真盛座というところで上映されたので、観に行った。中学一年生の頃であったかと思う。主演は勿論千代之助で、井伊直弼役が六代目坂東三津五郎(当時は簑助といった)。
この直弼さんが子供心によかった。この映画の主題歌「侍ニッポン、新納鶴千代」が気に入りで、今でもカラオケにいくと二回に一回はやる。歌詞の中に“恋の未練がナゼ斬れぬ”という箇所がある。この意味がわからず、某夜蒲団隣りに寝ている母に訊いたら、
「・・・そんなん、知らん!」
と一蹴された。母は照れたのであろうが、その頃の私は不思議を感じなかった。


大川橋蔵
「美剣士ーワイズ出版、1998年12月1日刊『美剣士』円尾敏郎、高橋かおる編」より

次に大川橋蔵。
橋蔵は錦・千代時代から遅れて登場した東映時代劇の看板スターである。端正な姿形、貴公子然としたマスクの橋蔵は、野性味豊かな美男の錦之介とはまた違った。いわば世間が忘れかけていた正統的美形スターであった。
橋蔵の代表作は川口松太郎原作の『新吾十番勝負』である。これは八代将軍徳川吉宗の落胤葵新吾が剣の研鑽の途次においてさまざまな剣客、この中には物語として当然悪人が少なくなかった気がするが、それらの挑戦を受けつつ自己完成をめざす——といった筋書きである。評判が良く、勝負は十番では終わらず二十番まで行った。
新吾の前に立ちはだかる最強の敵、名前をなんといったか忘れたが、この役が月形龍之介であった。龍之介の悪役が渋いので、シリーズ全体が引き索った感じがする。

橋蔵の異色の主演作で、シェイクスピアのハムレットを焼き直した『炎の城』というのがある。彦根城でロケがあった。高校二年生くらいの時ではなかったかと思う。どういうわけか、その情報をキャッチしていた私は、授業をサボってその撮影をみに行った。二の丸の天秤櫓の前に架った橋上での立ち廻り、カットでいえばひとつふたつ程度の短いものであるが、その撮影となると始終は大変であったと記憶する。敵の追撃を逃れて場内から脱出しようとする橋蔵に、悪者たちが襲いかかる。それを掻いくぐり城外へ——というシーンであるが、このシーン、素人からみれば十分OKだと思われるのに、監督は何度もなんども×印を出してテストをくり返す。本番も一発でのOKにならなかったと思われるが、イヤハヤ。御苦労さまであった。
その時、たしかあとからタクシーで到着した脇役の黒川弥太郎をまぢかにみた。大きな人ではなかったが、もう装束をつけていて、メリハリの利いた顔つきが恰度傾きかけた西陽に映えて、いかにもベテラン、貫禄十分にみてとれた。京都の太秦の撮影所でメークアップをして、そのまま湖岸をタクシーで走って来た筈だが、その表情に微塵も疲れはみてとれなかった。
後年TVで放映されたりビデオをかりて何度もみたが、天秤櫓前のシーンをみるたびにあゝ、あの時オレはあの場所にいたんだ——というわけもない昂奮に駆られたものである。
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前後截斷録 第48回

時代劇は東映!肆

中村錦之助、東千代之介、
そして大川橋蔵のこと


「時代劇は東映」の名を高くしたスターの代表は、中村錦之助であろう。NHKのラジオ番組でごく短い放送時間ではあったが、たそがれの一刻に少年少女を夢とロマンの世界に導いてくれた名作に、「笛吹童子」や「紅孔雀」というのがあった。それが映画化され、一躍銀幕のスターとして躍り出たのが錦之助であり東千代之介であった。今から思えばそのストーリィは荒唐無稽ではあったが、その「コートウムケイ」の中に、少年のわれらは現実社会への挑戦、不撓不屈の精神を養い培ったのである。
そのころの自分達が最も不思議に思ったのは、映画雑誌などにみる錦之助のふだんの素顔と、時代劇のヒーローに扮したときの美男子の男ぶりとの余りの相違、落差の大きさであった。メイキャップでこれほど変貌をとげることができる。田舎の村の鎮守の森の中で、悪ガキ共と一緒にチャンバラしながら、自らも勝手にスクリーンの中の錦之助に化(な)っていたが、そうしながら、イヤ、本モノはこんな感じじゃない、と反省しつつ、より錦之助の演技上のリアリティに近付こうと努力したものである。そして、われらもドーランを塗ってカツラをつければ錦之助に劣らぬ美剣士になれるのだと確信した。

時代劇は東映48
「美剣士ーワイズ出版、1998年12月1日刊『美剣士』円尾敏郎、高橋かおる編」より「美男城」カット
右は東映城のお姫様、憧れの大川恵子


 錦之助の代表作は何かと問われれば、躊躇なく「宮本武蔵」と答えるだろう。監督は内田吐夢。この「名匠」といっていいメガホン指揮のもと、61年位から年次を逐って5部作まで撮られた性根の入った作品である。原作は吉川英治の同名の小説で、恋人お通との果てしないスレ違いの愛を主軸に、吉岡憲法や佐々木小次郎ら当代の剣客を次々と斃し、宮本ムラのタケゾウから「ミヤモトムサシ」へと変貌成長してゆくというストーリィである。

 物語は極めて古風のラブロマンスであるが、今も昔も変わらぬ見ていて安心の物語で、また当時は結構これでよかったのであった。

(続)


前後截断録 第47回

時代劇は東映!参
両御大と大友柳太朗


大友柳太朗快伝より
筆者の愛読書である『大友柳太朗快伝(ワイズ出版ー1998年1月25日発行 大友柳太朗友の会 編)』より

次は大友柳太朗。
映画全盛の時代劇の俳優の中で、いちばん侍らしい格禄、面構えを具えていた役者は大友柳太朗である。殺陣(たて)のスケールが大きい。太刀捌きが抜群にうまい。戦国時代の大酒飲みの豪傑を演(や)らせたら、この人の右に出る人はいない。今後もおそらくみることはあるまい。

よくみると、この人の豪快さの裏には何か哀愁がある。そこはかとしたおとこのかなしみのような、微妙な色合いのものといったらいいかも知れない。演技は器用であるとはいえない人であったが、このかなしみは「大友柳太朗」本来の持ち味であったのだろう。
スクリーンの中で大抵かれは酒豪である。大瓢箪を大口あけて飲み干し、槍ふりかざし豪快に叫び笑うが、内心にはテレ隠し、やせ我慢、格好づけが濃厚にかくされてある。その裏側を、我々は何となく楽しみつつ肯定する。かれの大抵の作品のなかでは安心の範囲の寂寥だから、陰々滅々がない。手に汗握るような波瀾があってもそれほど肝を煎ることはないと。かりにシリアスなストーリィであったとしてもそこに「深刻」は根深く存在しない。
かれが全盛の昭和三十年前後、彦根城のロケでなんどもみたことがあったが、くわしいことは何も記憶にない。けれど、かれは土着の井伊家のサムライであって、それも歴々の重臣であり、問題の裁決をするため登城してきた。もう安心せい——といった気配をあたりに漂わせているのが常であった。
ひとつ鮮烈におぼえていることがある。映画のグラフ雑誌に、かれが手に入れた甲冑と共に紹介されたことがあった。それがなかなかいいものとして当時の私には羨しく思われた。この甲冑はのちにどういうわけか米子市に寄贈され、城におかれていた。

ずっと後年、鳥取大山方面を旅して米子を訪れた際、思い出して城を訪れ訊ねたことがある。柳太朗のヨロイは一度も飾られることもなく、今も倉庫代りの部屋の一角に置かれたままであるという。折角だからお見せしましょう、ということになって、見せてもらった。
米子の城の関係者はいずれも親切な方々であったが、これでは一寸勿体ないですね——と残念の思いを告げたことを憶えている。大友柳太郎の遺志は今も生かされていないのだろうか。

ヨロイに限らず歴史資料類は「寄附先」の受入れ状況を知らないと、折角の厚意が生かされないままになってしまう。当該の人々に悪意はないことは十分にわかっていることだが、どうしたものだろう。

大友柳太朗の作品で、心につよくのこっているのは『酒と女と槍と』筋書きは面倒なので省かせてもらうが、これは海音寺潮五郎さんの同名の小説をたしか内田吐夢監督がメガホンをとったもので、単純だが雄勁な戦国武士の悲劇が描き出されてよかった。後年、京都での時代劇が衰退して東京に移ってからも、現代物のテレビでいい作品に登場しているが、かつての時代劇大スターの境遇からみれば、本人自身落魄の思いはかくせなかったと思う。かれにとってはまことに生きにくい時代の転変であったろう。その突然の死の衝撃もいまだに忘れられない。

大友柳太朗はしかし私の心の中では永久に、大瓢箪を腰からはなさない痛快極まりない一本槍のもののふとして生きつづけている。

前後截断録 第46回

時代劇は東映!弐
両御大と大友柳太朗

美剣士両御大
筆者の愛読書である「美剣士ーワイズ出版、1998年12月1日刊『美剣士』円尾敏郎、高橋かおる編」より


 両御大とは東映時代劇を支えた二人の超大物俳優、市川右太衛門と片岡千恵蔵をさす。「御大」とは、「御大将」の略だ。この二大スターの名を知る人も少なくなったが、まず市川右太衛門から。
右太衛門は現在活躍中の北大路欣也のお父さんである。

 北大路欣也はたしか私と同年だと思うが、この方は少し生まれてくる時代が遅すぎた。いい役者さんだが、こじんまりとまとまりすぎてしまったような気がする。

 勿論この人の作品全部を見ているわけではないからエラそうなことは言えないが、彼の演技が一番よかったのは「仁義なき戦い」の若い広島ヤクザ。あれは良かった。 あの映画は、扱っている対象の是非は論外として、ヤクザ映画の最高傑作だと断言できる。彼はこの映画で演技開眼した、といってもいいくらい、悽いシリアスな演技をした。当節はややは好々爺になってしまった感じであるが、それは単に加齢のためではなく、全力でぶつかるような重い迫力ある作品に出会う場がなくなってしまったせいかもしれない。
「仁義なき戦い」はどの俳優もよかった。先般死んだ松方弘樹も、ニヤケがなくてよかった。この人は祇園の花見小路のクラブから出てくる姿を何度も見たことがあるが、その時の姿勢は映画と違って、周囲の人に大変気を遣った低いものであった。出口で人々にペコペコする姿は、スクリーンの上とは全く違った。私は祇園のほとりに長年棲んでいるので、芸能人にはよく出くわす。はなしが脇へ逸れた。

 市川右太衛門のことである。
京都に就職していた二十歳の頃のある夜、祇園石段下、ちょうどいまスターバックスのある辺りで、八坂さんの方から市川右太衛門がたぶん奥さんであろう、一緒に歩いて来るのに行き会った。私は目敏く市川御大をみつけたら、向うも私をみて、目と目が合った。そしたら御大は私の目を見て微笑し、軽く会釈してくれたのである。私は現役の時代劇の大スターの振舞いにびっくりした。

 その所作の、自然な丁寧さに本当に驚いてしまって、同行者に「凄いな・・今の、市川右太衛門や」「本当にどうや、頭下げはった。えらいもんやなあ」となんども感激を叫んだのであった。一方で、あの銀幕では大きくみえる右太衛門が、スクリーンとは異なって現実には意外にも小柄であったのも驚きのひとつであった。要は演技力だったのだろう。

 右太衛門の代表作はいうまでもなく東映時代劇のドル箱企画として連作された「旗本退屈男」で、殆どワンシーンごとに変わっているのではないかと思わせる程な衣裳の豪華さ、七百石の旗本侍という設定ではありえない贅沢を、まさに夢の如くに相似たり——と禅語ではないがなかば呆然として楽しんだものであった。

 片岡千恵蔵は東映時代劇両御大の内の一方の頭領である。
この人は中学生の頃、赤穂城なんとかという題名は忘れたが忠臣蔵関係の撮影に彦根城へ来ていたとき、ずいぶん間近にみたことがある。

 大石内蔵助の役で、場所は二の丸多聞櫓前、城内の名所である「いろは松」のかかり口においてであった。空は天気よかったが、内蔵助は傘をさし、ホースから空へと水がまかれていた。雨の中のシーンである。
撮影は城へ登る途中、内蔵助が濠から這い上ってきた侍に対面し、何かを告げられる——そんな簡単なものだった。内蔵助は側に小姓をつれ、佇立する。濠の泥水にまみれた侍が、何やらセリフをいう。内蔵助はこれといった動作はせず、小さく反応する——。マアこんな状況であったと思うが、これを内蔵助の千恵蔵は当然ながら一発で決めている。この位のカットは軽いものである。ところが、端役(といっては失礼だが)に近い侍の俳優が、自分の演技に不満があったのか、何度も濠の中へ入ってやり直しを要求するのだ。見ていても、別にもういいのに、と子供ながらにヤキモキしたものだが、千恵蔵は厭な顔をせず、いちいちそのやり直しに応じていた。

 私はその忍耐強さ、映画撮影の大儀さに呆れる程に感心したものである。たしかにこの風景は学校の時間割に従う勉強より、ある大切な何かを私に教えてくれたのではないかと今となっては思う。

(続)

前後切断録 第45回


「時代劇は東映!」壱
新諸国物語
「笛吹童子」「紅孔雀」の時代


美剣士表裏
幼き頃の夢とロマンを想い出させてくれる、時代劇美剣士の特集本
(ワイズ出版、1998年12月1日刊『美剣士』円尾敏郎、高橋かおる編)



 今日は「時代劇は東映」——という、キャッチフレーズで戦後の時代劇をリードし、憧れのスターを次々と生み出した東映、その俳優さんたちのこと、散発継続的だが思い出すままに書いてみたい。鎧や刀への憧れから、歴史へ興味を持つようになったのも、考えてみれば少年時代にみて喝采を送った東映の時代劇に始まるといっても過言ではない。

 以下、古き良き時代の東映時代劇俳優さんたちのもろもろを、雑話的に記してみたい(文中登場の俳優さんの名は敬称を省略させていただく)。

 幼若の頃、いわば生活の伴侶となってゆく東映時代劇とのはじめの出会いは笛吹童子あたりから始まる。これは「新諸国物語」と題して毎夕刻15分程、NHKのラジオで連続放送された冒険ドラマで、北村寿夫原作、福田蘭童音楽であったが、このテーマ曲、ヒヤラーリ ヒヤラリコ〜で始まる歌が実に気に入った。できるだけこの時間は聴き逃さない様、外で遊んでいる時は近くのラジオのある家に寄せてもらい、玄関口で頼みこんででも聴くように頑張った。
 このドラマが評判がよく、やがて映画化されて大ヒットすることになるのだが、その主演が中村鈴之助であり、東千代之介、そして脇の主役が大友柳太郎(この頃は「朗」ではなく「郎」)であった。

 新諸国物語は「笛吹童子」のあと「紅孔雀」と続き、東映時代劇の記録的大ヒットとなった。この二作の成功で中村鈴之助や東千代之介は一躍スターダムにのし上がり、我ら少年の憧れの的となった。

 腕白坊主は勉強などそっちのけ、みんなに錦、千代が憑依して、森の中、林の奥を枝木の木刀をもって剣戟に奔走した。映画中の悪者や仮想の敵を拵えたり、夢想して、コガタナで指を切ったり、転んで膝小僧を擦りむいても、流れる血は全て正義のためのものである。意気は昂然たるものであった。しかしグループで笛吹童子のままごと遊びをするとき、必ず先輩年長の奴が主人公になって、自分達後輩はワキに廻される。それでも、その役に徹して励むのであった。

中村錦之助、東千代之介のことは、後日また別に触れる。



(R2,2,15)