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前後截斷録 第76回


同窓会・水泳場その他雑記 続



 近くには「松原水泳場」があり、中学校の頃は授業の一環として水泳場での泳ぎの練習がしばしば実施された。その頃は男子は水着(水泳パンツと称した)などははかない。いわゆる六尺褌を用いた。
水泳場前の小道を挟んで佐和山側には唐モロコシ畑になっており、そこで男子生徒は六尺褌を着用した。バッタかイナゴが我々の足許をキチキチと翅音を立てて飛び交った。

この畑のあたりも戦国〜江戸期は一面の湖水(内湖といった)で佐和山や彦根の城の重要な要害の一つであった。
私は毎度のことであるがこの松原水泳場へ来ると、ひとしきり泳いだあと蜆とりに熱中した。当時この辺りの砂地にいたのは紅蜆という上質の蜆で、味噌汁にすると美味なものであったが、これも昭和40年代位であったか、湖水が汚れて絶滅の危機に瀕したことがあった。

さて、蜆取りが一段落すると、水から上って甲羅干しをし、再び水に入る。そして松林のかなたにある佐和山城の古城址を眺める。
首から上だけ水上に出して、飽和した気分で佐和山をみていると、水上のもろもろの音が聞こえる。泳いでいる男女の声、ボートのオールの漕ぎ音、少し遠くモーターボートのエンジン音——。
浅いところで水中メガネをかけて覗き込むと、無数の小魚やエビが右往左往しており、ここらにも生物のしっかりした営みがあることを知る。そういえば、この松原水泳場で死にかけた記憶がある。

先生6才叔父と水泳
6才の頃、松原水泳場にて叔父と水泳の一枚

当時の松原水泳場には「飛び込み台」が何基か設置されていた。簡単にいえば木組みの櫓のようなもので、そこがもう水深が2メートル強程はあって、中・高時代に170cm以上の身長があった自分でも背が立たなかった。つまり飛び込み台には泳いで到達するしかなかったわけだが、そこへ泳ぎ手たちは群がり集い、台の上に立ち上がって飛び込みの順番をまつのである。台上は4、5人が立つのが限度の狭い処で、そこへ少年野郎共は次から次へとよじ登り、また飛び込んでゆくのである。心得のあるやつはプールでやるような正式の飛び込みをするが、殆どは立ったままの棒飛び込みである。「地蔵飛び」といった。自分も地蔵飛び専門で、ドブンとおちこんだらあとは頭と足を逆さまにして飛び込み台の一番底、そこは大きな横に差し渡した木組みがあって痩せた大人一人がやっと底の砂地を抜けられるくらいの隙間がある。ここを少年たちは次々と潜り抜け、浮かび上がりを競うのであるが、自分も挑戦したくなった。ドブン——とやってさっと潜り抜ける。その予定であった。ところがやってみたら底を抜けきれない。こうして書いていると只の出来事であるが、自分には実は重大事がおこっていたのである。六尺褌の結びの端が横木に纏わりついて脱出不能の事態が出来したのだ。頭を上げると大少の水泡にまぢって青い空が波に揉まれてゆらゆらと映る。瞬間死の恐怖が全身を包んだ。——もうあかんのか。——もうあかんぞ、もうあかん・・・。

この時何をどうしたのかはっきりと記憶しない。ともかく、六尺褌のまとわりを外そうとただ焦って暴れた。切羽詰まった人の苦労など何も知らず、他の奴らはなにやら次々と飛び込みを続け、自分が生死の境にあることなど関知しない。——ああ水で死ぬとはこんなことか・・・と半分無意識になりかけてきたとき、六尺褌が外れた。解けたのである。助かった!そう思ってうわっと歓喜した。体裁などもうどうでもいい。——そしてどうやら助かったのである。

この若い頃におきた生命に係る大事件はいまだ思い出すたびにぞっとする。もう一瞬作法を誤ったら、フンドシが解けてくれなかったら、それからの自分の人生はあり得なかったわけだ。琵琶湖に成佛せず沈んでいる無数の怨霊のひとつに化すところだったのだ。今思い出してもこの記憶は恐怖である。


松原に泳ぎに来なくなって、もう15年ほどはたってしまった。子供たちもそれぞれに成長し、自分自身も立派な高齢者に入ってしいまったから、今更水泳でもあるまいと思っているところが私のどこかにある。このような思いが頭のどこかに宿っていることは、果たしていいことであるかどうか。トウモロコシ畑に隠れてズボンを脱ぎ、六尺褌にかえる。近くをキチキチという翅音をたててバッタがとぶ。吹く風が熱を帯びているがどこか畑の匂いを運んで芳しい——もうそんな情景風趣は再び味わえないのである。この記憶は貴重である。今や懐かしい人生の財産のひとつとなっている。

(六・四・十一)
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前後截斷録 第72回

翔べ、鬼ヤンマ



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あこがれの鬼ヤンマ(おにやんま君)

夏も盛りになると、鬼ヤンマがとんでくる。夏の風物詩の典型である。先日高台寺下、菊渓川暗渠の道を散歩していたら、鬼ヤンマが道に落ちていた。珍しい光景である。みたら、揚羽蝶をたべている。大型の揚羽蝶である。通行人など一切無視して一心に喰べる。おのれの命の危険など全く頓着なさそうだ。勁い姿に一瞬みとれた。

鬼ヤンマには古い憶い出がある。一番古くて強烈なのは、彦根駅前上新屋敷町に住んでいた頃、その前の道を東から西へ母と共に歩いていた。小学校一年生時分のことだったろう。すると向こうから、西から東へ、僕らの歩いてくる方に向って、一直線に鬼ヤンマが翔んで来た。まさに一直線、天下無敵の飛翔である。それが僕たちをまるで目がけるように真っ直ぐにやって来た。アッと思った瞬間、その鬼ヤンマを母は右手で捕えたのである。鬼ヤンマも疾かったが、母の動作も疾かった。

気がつけば鬼ヤンマは母の右手中にあった。私は母の右手を握っていた筈だが、——いつの間に捕ったのか。文字通り私は瞠目して、「——おかちゃん、すごいな!」と叫んでいた。凄い手わざだと感心したが、よくみるとそいつは大きな蜂を喰っていた。おのれが母の手中に落ちたと知りながら、バリバリと喰っていた。
もう古い憶い出だが、鮮烈な印象は今もそのままにある。あの時の鬼ヤンマの、獰猛さは何処から来ているか。捕まった現状の殆うさは考えにないのだろうか。喰っている今、この時こそがとりあえず肝要なのだろう。

あれから何十年もの間、鬼ヤンマは数えきれぬほど見た筈である。京都でも、住まいの近く東山、霊仙谷をのぼって下がってくる道すがら、谷道の下から一直線に登り道を翔んでくる姿をみて胸おどらせたこと度々である。瞬間本能的につかまえたい!とそのたびにドキドキしたが、手捕りなどできる筈がない。母の昔のあのファインプレーは、本当に千にひとつの偶然の倖せであったのだ。歳を重ねるごとの時々に、このことが思い出されその姿が鮮やかに脳裡に蘇る。


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彦根往古絵図(筆者蔵)佐和山古城址と千代神社の位置関係——このあたりが鬼ヤンマやクマゼミの主要ハント地だった


鬼ヤンマでは、もひとつ痛い記憶がある。彦根の東郊、佐和山の南麓に千代の宮の神社があった(今は市内に移転されている)。ここから山手にかけての一帯は、私達ガキ連の貴重な遊びの場所であった。思い立ったらそこへ遊びにゆく。大抵は数人連合であるが、しばしば一人の時もあった。その一人で遊びに行ったときである。
大きい鬼ヤンマが、高く伸びた一本の雑草の頂辺に止まっていた。全体トンボは何かに止まって翅を休めると、ヘリコプターの主翼のようにハネを少し己の脚の方へ向って下げる傾向にある。そいつは、ハネを休めていた。しめた!と思った。こいつを捕まえてやろう。

ふつうこういう状況にいる鬼ヤンマにであうと、少年は前後の見境を失うことしばしばである。私もその通りであった。凝乎と息をひそめ、それこそ草木にもさとられぬほど息を詰めて鬼ヤンマに近づいた。最初見たとき彼我の距離は七・八メートルもあったろうが、捕まえるときは絶対的に鬼ヤンマの背後から迫らなければならない。よし、この調子なら旨く行く。四メートル程になって、そう思いつつ、心中莞爾としたとき左膝に激痛が走った。鉄条網である。そこには外部の者の侵入を拒むあの凶悪なトゲだらけの鉄条網が敷設されていたのである。何とそれを、その危険性をうっかり忘れていた。あ、痛ッと思いながらも、僕は鬼ヤンマの方を見た。——!しかしそこには既に奴はいなかった。奴のいた一本の雑草だけが、少しく風にゆれ、いやに勁い草にみえた。

血が流れていた。やってもたなア——何より母のこわい顔が浮かんだ。やってもた——自分でも呻くように呟いたのを昨日のように思い出す。慚愧に耐えない。
この傷跡は、今も私の左脚に深くのこっている。膝頭から脛の下にむかって、鉄条網による複数の刺のアトが生々しい。あのあと母の手前をどう繕ったのか、全く記憶は失われている。
あの鬼ヤンマは、つかまえたかった——。

先日、家人が鬼ヤンマをプレゼントしてくれた。プラスチックの出来物だが、これを蛍光灯のプルの下に括り付けておいている。ハネの具合、尾の反りや黒と黄の調子、そしてまず一番にあの碧玉のような複眼の大きい目玉——。すべて本ものとは違うが、眺めていて悪くない。1日に何十回もみるが、飽きない。そいつはクーラの風などに煽られてゆるく周回するばかりで何もないが、奴はいつもこっちをみている。やっぱりこいつは翔んどるんだな。——翔べ、飛べ、もっと翔べ——いつまでも。


元気なうちに、もう一度鬼ヤンマを捕る。——捕らえるぞ!


2023.8.8

2023.09.16 訂正

前後截斷録 第71回


多忙々亦忙々(近況にかえて)

齢八十に加うる一年。未知の年齢領域に踏み込んで、日々健斗中。われらの知人はみんな「御隠居様」らしいので、現役就航各所転戦赫々の戦果(?)をあげているのはおそらく本艦のみと想像される。
ゆえにさらに一層の斗志を燃やし、風浪高きわが終末に近い人生航路を渉らんと欲している。最後の港はわからないが、とにかく漕がなければならぬ。まさに『老人と海』である。
自己奮斗の日々は生きる限り続くのだ。
さて朱鬼舎日乗(あかおにのやの日常)——まず大抵は在宅して、歴史資料や古武具の調査、それにたまさかの読書である。しらべ事の時代は鎌倉になったり、桃山になったり、時に幕末に及ぶ。転戦とはそういう謂いである。成果はいつ得るとも知れぬ終りなき旅路を往還する。

井伊家の草創期の諸もろを記したものに『円心上書』というのがある。この本を彦根の古物屋で購めたのが採集彦根藩古記録類の、最初の一冊。六十年近く座右にあるが、いま三十回目くらいになる再読をしている。
この本は、井伊家の家老の円心中野助大夫が井伊直孝の言行を記録したいわば「昔話集」で、家中上士必読の聖書というべき重要記録である。司馬遼太郎氏の「街道をゆく」に紹介引用された拙子の、「彦根藩侍物語」中の一話も原点はこの『円心上書』から採った。

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『円心上書』表紙右上に「第一号」とある。
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名古屋叢書


こういうものを読んでいると、「時代の匂い」が身に染みて、恰もおのれがその時代に活きているような気分になる。その意味では尾張徳川家初世の藩士の事件を記録した「紅葉集」も面白い。これも愛読書であるが、諸々の事件(大抵は侍たちの刃傷斗争事件)がごく簡単に数行で記されてある。一件の中には当事者たちの万斛の思いがこめられてある筈だが、それは行間に推量するしかない。しかしその数行を心で解く作業は再読するごとに深くなって楽しい。
当時の侍たちはホンの一寸した口論ですぐ刀を抜いて、結果おのれも自殺する。自分の命を毛ほどの重さにも思っていない。主君や主人への忠誠より、おのれの意地が大切だった時代である。
ま、そんな気まぐれ読書を、本職の間にとりまぜて、その中から日々新しいものを発見するように勉める。あとは時に庭に出て、木刀の素振りをやる。始めはゆっくり確実に、次は早く、そして再びゆるやかに収める。むりをしない。三百本位振ると体調、気分があらたまって、また何か積極的に取り組みたくなる。面倒と思って放置している本や、雑品の整理も、こういう時は苦にならない(因みに拙子は中学生時代剣道をはじめ、高校時代は一応部長兼主将をつとめた。剣道「同好会」から正式の「東高剣道部」に格上げしたのも自分である。つまり東高等学校「初代剣道部部長」である。まず部員を集めるのに苦労した覚えがある)。
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前列中央が筆者、中列右が、中高通じての親友、藤森勧。かれはのち京都に住んで、タクシードライバーになっていた。筆者が京都へ移住した時キャッチボールをして、その夜居酒屋で一杯やったのが最後で、かれが少量の酒で酔っ払い、「達さん、わしはもうこんなもんやと思う」とボソッと漏らした一言が、妙に気になっていたが数日後急死した。まだ40歳、これからという時だった。

それから近隣の散歩。大抵はお隣の建仁寺だが、たまに東山高台寺近辺あるいは鴨川を、北の方まで遠征する。堤上の芝生で仰向けに、車の喧騒を遠くに聞いてウトウトする、わが身の倖せを感じる。
ゆき帰りのどこかで行きつけの喫茶店へ寄る。お気に入りは何軒かあるが、その内どこかで紹介することもあるかも知れない。
外歩きはまず一人ではない。その危険性はまずないといっていいけれど、いつ転倒しても大丈夫な強力(ごうりき)の秘書、時には伜が同行してくれる。
夕飯前は缶ビール一缶。これで何か知らん本日終了という感じになる。何と缶一本でいいのだ。むかしは祇園、木屋町鴨川の東西問わずそれなりに遊んだものだが、今は温和しいもの。夜の世界に未練はない。かつての帝王(?)は退位して久しい。二十歳前後、京都サラリーマン時代は毎晩と言っていいほど夜の巷へ繰り出した。仕事を終え社の寮へ戻り、銭湯へ入って近くのうどん屋でビールを飲み、小食して裏寺の方へゆく。ここにホルモン屋があって、ここで下地をつけ夜のまち歩きである。当時は「純喫茶」と称する酒を供する喫茶店のような店が流行っていて、「DELUXE」という大仰な名の店が気に入りであった。夜はそこから始まる——といって少(わか)き日を娯しんでいた。聊か話が脱線してしまった。

今も体力には自信があるけれど、時間が勿体ない。四条は近いので、買い物にも行かねばならぬのだが、なかなか出る暇がない。

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二十歳前後の頃、足繁く通った木屋町のバーのひとつ「ちひろ」の跡
六十年もの後に、ここに立とうとは・・・。

さて、肝腎なところがぬけているのに気がついた。やらねばならぬ書き物のこと。『井伊直孝軍記』と『井伊直弼史記—大老の真実—』の執筆である。
この拙子にとっての人生二大事が、日常に逐われていずれも集中して書けていない。あっち、こっち、ポツポツ。牛歩である。すこしも焦る気持がないので、まだ拙子の寿命はあるということだろう。死が近づくと人は事(こと)に焦るか捨離するかいずれかであって、止める気がない以上、捨ててはいないことになる。

以上のような日々の間に時おりTVの取材がある。今年は年初からロケが何回かあったが、結構楽しくやらせてもらった。スタッフの人々はほとんど表に出ないのだが、番組に対する執念は大変なもので、いつも感心する。同時に勉強にもなる。

館長美の壷
令和五年二月放送『美の壷 特集 “月“』取材風景

伊達政宗の詩に
「馬上少年過、
世平白髮多。
殘軀天所赦、
不樂是如何」

というのがある。この詩の最初の一行「少年過グ」のところをプロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスは「馬上を三日月を背負った少年が過ぎてゆく」とそのまま素直に解釈し、応援歌に取り入れている。つまり「Young boy Masamune」が馬に乗ってゆく——というわけだが、実はこの場合の「少年」の意味は「若き時」である。現実の「馬上少年」をいっているのではない。戦争にあけくれるうちに若き時代はアッという間にすぎてしまった——という意である。当然ながら正しく理解している人々も多いけれど、誤解しているムキも少くない。応援歌などどんな解釈をしても構わないじゃないか——という御方はこの際論外である。野暮ながら一言、因みにこの楽天はファンではないが、いい選手がいて嫌いではない。応援歌もなかなかいい。

たしかに、政宗のかつての壮志からみれば江戸泰平は少しも面白くなかったであろう(詩の結句はそういう意味からいくと「楽しまずんば——」ではない。「楽シマザルハ——」である。一寸も面白くないという政宗の愚痴で、「こんなつもりじゃなかった、俺の人生は・・・」というまことの嗟歎である)。

しかし、拙子における「赦サレタル残躯」は大変有難い。天赦を存分に享受して、幾何かはわが轍のあとを残したいものだ。
まだ「元気」は溌剌に近い。暖かくなったら、将軍塚か、大覚寺奥の梅林の向こうでで伜(せがれ)を相手にキャッチボールでもやろうと思っている。もう数年前のことではあるが、息子はわが速球(——かつて偶然知り合った三笠コカコーラの野球部で、正捕手をしていたという遠者の好青年を坐らせ、知恩院横の川縁りで一時間余り投げたことがある。その他仕事で来た誰彼をつかまえて、よくやった。冬場は受け手がグローブを外したら血がでていたことがあった。迷惑をかけたと今頃反省している。30年ものの昔噺である)を受け損なって顎で受けるというハナレ業をやった。軟球とはいっても痛かったにちがいない。弱音を吐かなかった。そいつが、この間、「球速落ちましたな」とほざいた。もはや夕日の「歓」なく西山の落日に対するのみ——か。何やかやと多忙だが、それを楽しんで81才の男坂を超えてゆきましょう。

一応、わが近況まで(五,三.三)。

さらばよし、あの山を越えて新しき地に水飼はむ空は青空 

わが敬愛する中村孝也先生の絶唱を呈上!

前後截斷録 第53回


近況
——真贋の鑑定と評価——


                        (一)


 甲冑、武具及び古記録・古文書類専門の美術館を設けて二十数年も経つと、ヨロイやカブト、古い書や軸物の鑑定を依頼されることが多くなった。甲冑類は一ヶ月約五十領位はみるから、この数字はおそらく日本随一であろうと思う。
書いたものは古文書類、特に井伊家関係が主体になるが、なかでも断然多いのは井伊直弼である。直弼は一般的に自作の和歌を表具して軸物仕立にしているものが多いが、これに偽物が少なからずある。特に要注意なのは一文字や風袋に井伊家の家紋である橘や井桁を織りこんだ作品だ。

 昭和のある時期、筆者の小学生の頃、直弼の偽書を盛んに製造し、表装したものが作られた。某家にも、はじめから終わりまで全てこの手の偽物百本近くをコレクションしていたところがあったが、多分、今もそのままにあるのだろう。
 彦根の古い商家であったある家の売立目録の写真掲載品の中にも、とんでもない直弼の贋物が堂々と載せられてある。井伊家歴代中その書き物が最も高に売買されるのが直弼であるから、ニセモノが多いのも無理はない。
徳川四天王の筆頭とされる戦国人井伊直政の自筆は無いに等しい。

 筆者が経眼したところで確実なものは若神子陣(直政二十二歳)の時の覚書(大日本史料所収)、及び末期の遺言と、それに係る一書くらいのものである。もう一点、故末松修氏のところでみたものがあるが、これは井伊直政書状として正真であるが、古い記憶なので自筆かどうかおぼえがない。

家康朱印状
井伊直政自筆(徳川家康朱印状)


 直政の子で、のち兄直継のあと彦根の藩統を継いだ井伊直孝の自書もまず余り見ない。五十年位前米原の蓮華寺で展示してあるものを一点みたが、これはよかった。直孝の自書は家臣に直接与えたものであるから全部署名がない。用紙や字体、——書き癖を知らないとわからないが、それ以上に文章が力強い。筆者がこういうのは、直孝自筆を八十点以上収集した結果である。直孝の花押ある書状類は全て代筆、祐筆手になるものであって、その筆者は岡本半介や大久保新右衛門、三浦内膳等直孝近侍の重臣たちである。

直孝文書 1
井伊直孝書状①(自筆-案文)

直孝文書
井伊直孝書状②(自筆-案文)

直孝文書 2
井伊直孝書状(代筆)

 井伊家歴代中、最も能筆だったのは直政、奔放闊達なのはその子の直孝、そして難読、難解第一なのは直弼。この評価は私の中でかわることはない。それぞれに、その人の個性があらわれて面白いが、特に細心なのは直弼で、その律儀、几帳面さが、行間から溢れ出ていて、今もなお、読み直すたびに文言中の指示について「おれは気になって仕方ないんだ」と叫んでいるように感じる。

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井伊直弼絶筆
桜田遭難の数日前の公用私信。直弼文書中、最も乱筆・難読の書状(一部)


 はなしの入り口で、古い書きもの、特に因縁の深い井伊家の有名殿様の文字、文章についてふれてみた。次に本題のヨロイ、カブトの鑑査の件について書いてみたい。(R3.8.1)

前後截斷録 第52回

きょう、この頃

 このコーナも大分ご無沙汰が続いている。
トシが年だけにどこかでくたばっているんじゃナカロカと思われてもいかんから、チョット、近況レポートを・・・。


 とにかく余りにも忙しい。ヨロイカブト、刀剣武具の調査と撮影、『井伊直弼史記』の続編「—大老の真実—」稿の執筆、そしてこれまた「井伊直孝軍記」の史料調査と執筆。
一日がアッという間にすぎる。学校時代の同窓生の知人の中には、夕方は7時から寝て・・・またそして朝も寝て・・・ヒルも、というネコのような生活を送っているヤツがいるが、それもよくヤルなあと感心するけど・・・羨ましくはない。忙しいとボヤきながら、実は喜んでいるというのが正直なところ。このトシになると、忙しさに対応して、動けること自体大いに感謝しなければならんのだ。——こんな有難いことがあるのだろうか、と。

 そんな中でも、強制的にオフの日を拵えて、仕事から離れる。労働で体力を使っていても、それは「運動」ではないので、休みの日は出来るだけ体を鍛えるつもりで近隣を歩く。建仁寺や東山知恩院界隈。大体3時間。散歩のつもりで周囲の風光を眺めながらウロウロする。

円山公園

丸山公園しだれ桜の巨木を背に 2021.03

  京都に来た40歳頃から20年間位は1日2時間「強歩」した。専門的ではないが、2時間早足で山坂を円山公園や近くの寺々を馳せ廻る。当時をふりかえると、矢張り若かったなァー。そして顧みて今の頽廃ぶりを思う。大型の飼犬五匹のリードを弓手(左)に一本にして、指揮用の木刀を馬手(右)に、霊山さんの道を濶歩したのは、あれはもはや幻か!泉下の犬共は、蓋し俺の来るのを待っておるヤロナ。簡単には倶会一処とはならぬ!

青蓮院
長野主膳ゆかりの青蓮院 2021.3

40年は一睡の夢と化(な)りつつある。東山を1時間もあるくと、自分でも気付くが足許が、大袈裟にいえば滄浪となっている。音もなく寄ってくる近頃のクルマは危険だ。危い、アブナイ。

足腰の堅固で素速しこい秘書子がついて来てくれるので、万一の安心はあるものの、一人では何もできないおのれ自身を時折客観視すると、お先は暗い。

 結婚はしているが、殆ど単身にちかいくらしをしている大学教授を知っている、この人は料理から掃除、センタクまで身の廻りのことは何でも自分でやる。ワタシのようなものからみるとまるで天才である。自分もやれば、料理の感覚など悪くないので、出来る筈——という自信があるが、その余のことはダメである。

足許が覚束なくなると、いつもお決まりの喫茶店。行動範囲の中に、何軒か休み庭がある。
 
 ここで暫く、茫漠とした一刻を過ごしたら、再び現実に戻って歩く。我流の柔軟体操、四股を踏むのは大抵その辺の神社の瑞垣(みずがき)のあたりだが、つい先日、粟田神社の石段の脇に文字を彫った台石のようなものをみつけた。年号を読むと「文五乙巳暦七月吉日」とある。

粟田
粟田神社階段横、石灯籠基石の彫年号

干支で調べたら、年紀は寛文5年である。京洛ではこのように忘れられた歴史の道標が至るところにあって、散歩してもいつも新鮮で退屈することはない。

(続く)
2021年4月15日