FC2ブログ

前後截斷録 第51回

関ヶ原へ 2


古戦跡から少し北西へ進んで奥へ入ると、旧陸軍の弾薬庫であった「玉」という地名の所に到る。50年程前、ここから鍾乳洞が発見され、古戦場に加えて新しい観光地が生まれた。当時地元放送局のPR代理店を経営していたわたしは、この情報を聞きつけ、一番先に駈けつけてラジオ番組のスポンサーになってもらった。この日事務所は無人のようだったが、建物の昔のままが、古びた状態で歳月からとり忘れられたように、残っていた。

鍾乳洞
鍾乳洞管理事務所遠景 2020.6.1

鍾乳洞へゆく小道は、そのまま旧陸軍の㊙︎公道である。
今も、歩哨がやっと一人立てるような雨水を凌ぐ警衛所の建物がのこされている。
道に沿って山手の方には、小さい洞窟がいくつかある。ここが弾薬を収納した場所で、昼なお暗く、冷たくて湿気が強い。

むかしはよくこの洞窟の中へ入った。この洞の中をのぞくのはすこし度胸がいる。こういう所へくると、やや大袈裟だが、人間が原始、本能的にもっていた危険に対する本能を覚醒させてくれるのだ。
たしかに、この中で、数匹の青大将がとぐろを巻いているのや大きなムカデが音をたてて這っているのをみた。

洞にのぞき入って、いつも数秒で、こわいな、外へ出たい-という奇体なスリルを感じて飛び出す。
ヤンチャ坊主の時代を思い出させる、なつかしいところだ。
これらは紛れもない大日本帝国の軍事遺跡で、残存していること自体が珍しい。
戦いに敗けてから、我が国では一時、こういう暗い時代の記憶を殊更に抹消、忘却しようとした気配があったようだ。

現在は露骨に人が人と殺し合う理不尽な殺戮戦から遠ざかってはいるものの、いつまたいかなる拍子で悲劇が再開されるか、わからない。
偶々日本では鉄砲から離れた平和が七十年以上続いているが、やがて歴史はくりかえされる。
アゲインはないという保証はどこにもないのである。そのような懸念を忘れないためにも、このような歴史遺産は貴重であろう。

時代の距離が、古戦物の歴史には遠く及ばないから尾崎士郎の『篝火』のロマンはないけれど、使い古された安易なことばでいえば立派な「負の歴史遺産」ということになろうか。
現今はいわば放置された状況で、風化にたえる保存措置が施されるのが望ましいのではないか。滅びゆくものは亡ぶままがいいのかも知れないけれど。

彦根に住んでいた若い頃は、関ヶ原へ来ると帰りは大抵北国街道を湖北の長浜へぬけ、琵琶湖を南へ彦根に至るルートをとっていた。
長浜へぬける途次には息長(おきなが)御陵のある小高い山々が眺められる。落日を背にした御陵の山の姿に、不思議な威厳を感じたものである。


そういう風光をみなくなって久しい。いつか、時に会えば久方ぶりにこの道を走ってみたい。近頃は大抵名神高速道路を一挙に京都へ向かう手抜きをやっている。要するにこぜわしい日々を送っているということだ。本年も昨年同様、健常な心身を維持し関ヶ原を訪れるつもりでいる。

関ヶ原
関ヶ原決戦地記念碑の前にて 2020.6.1
スポンサーサイト



前後截断録 第50


関ヶ原へ 1


むかしから、年に一回ぐらいは必ず関ヶ原へゆく。
別にかくべつの目的があるわけではない。関ヶ原へ、ただ行くだけのことである。行ったら、その辺りの山や野を眺めて、そして帰ってくる。
大抵前年の記憶は忘れている。
二、三日前のことでもきれいに忘れているから、毎度が新鮮である。この年齢になると、「新鮮」というのは格別ありがたい。何をみても出来るだけ新しい発見をするようにして感心し、またすぐ忘れる。

f.jpg
関ヶ原 家康首実検跡地横にて木登り


行けば必ず訪れるのは三成の陣所跡とされる笹尾山、その前の畑地に建つ決戦場の碑のところ。そして徳川軍勝利の首実検場趾。
三成が本陣を構えた笹尾山から東をみると、古戦場は殆ど一望の内にある。西軍の諸勢の配置を考えると、西軍石田方の配陣は完璧なものである。徳川方は西軍の包囲網の中にある。家康は西軍諸勢の配置を了知した上で、赤坂から出軍し、あえてその包囲網の内に軍を置いた。いわば死中に活を求めた必死必勝の覚悟で、桃配山に即(つ)いていたわけだ。事前に松尾山の小早川軍内応の約諾を得ていたとしても、戦勢の如何によっては、小早川のことである。向背さだかではない。裏切るものは、再び裏切るのである。戦国を生きぬき、勝ち残って来た家康に左様な常識は不要だ。——と、そんなことをとりとめもなく、関ヶ原のあちこちを走ったり歩いたりして考える。いくたびも同じ思いのくり返しだ。

スキャン 13
家康首実検跡地前にて(約十二年前の古写真)


三成の陣所の前、今は一面の畑地になっているが、四十年前毎年初夏は苺畑になった。シーズンが来ると苺狩りの人々で賑わった。
苺狩りは毎年参加のメンバーで、小さかった姫たちをつれて行くのが楽しみであった。
採り放題、食べ放題であるから苺好きにとってはたまらない。もう当分苺という字さえみたくない、と思うほど決定的に飽食して帰るのだが、次の日になると、また喰いたくなる。苺はそれほどの好物であったが、近頃は年のせいかそんな執着から離れた。
それほど思わなくなった関ヶ原の苺畑のことも、あまり聞かない(調べてみたら今も季節が来ると開園しているらしい)。

左近死し、兵庫も死んで苺かな

左近は島左近清興(実名勝猛は正しくないという)、そして舞兵庫。いずれも三成家中の重臣であったが、決戦の時、今は苺畑になっている周辺で戦死した。かつて屍山血河を現代人は行楽している。桑田、滄海のはなしより凄まじく感じるのは、あの関ヶ原の戦いに思い入れがすぎるからであろうか。

スキャン 12
関ヶ原決戦跡地の苺狩り畑にて(約三十年前の古写真)


続く
(2020.11.15)