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前後截斷録 第71回


多忙々亦忙々(近況にかえて)

齢八十に加うる一年。未知の年齢領域に踏み込んで、日々健斗中。われらの知人はみんな「御隠居様」らしいので、現役就航各所転戦赫々の戦果(?)をあげているのはおそらく本艦のみと想像される。
ゆえにさらに一層の斗志を燃やし、風浪高きわが終末に近い人生航路を渉らんと欲している。最後の港はわからないが、とにかく漕がなければならぬ。まさに『老人と海』である。
自己奮斗の日々は生きる限り続くのだ。
さて朱鬼舎日乗(あかおにのやの日常)——まず大抵は在宅して、歴史資料や古武具の調査、それにたまさかの読書である。しらべ事の時代は鎌倉になったり、桃山になったり、時に幕末に及ぶ。転戦とはそういう謂いである。成果はいつ得るとも知れぬ終りなき旅路を往還する。

井伊家の草創期の諸もろを記したものに『円心上書』というのがある。この本を彦根の古物屋で購めたのが採集彦根藩古記録類の、最初の一冊。六十年近く座右にあるが、いま三十回目くらいになる再読をしている。
この本は、井伊家の家老の円心中野助大夫が井伊直孝の言行を記録したいわば「昔話集」で、家中上士必読の聖書というべき重要記録である。司馬遼太郎氏の「街道をゆく」に紹介引用された拙子の、「彦根藩侍物語」中の一話も原点はこの『円心上書』から採った。

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『円心上書』表紙右上に「第一号」とある。
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名古屋叢書


こういうものを読んでいると、「時代の匂い」が身に染みて、恰もおのれがその時代に活きているような気分になる。その意味では尾張徳川家初世の藩士の事件を記録した「紅葉集」も面白い。これも愛読書であるが、諸々の事件(大抵は侍たちの刃傷斗争事件)がごく簡単に数行で記されてある。一件の中には当事者たちの万斛の思いがこめられてある筈だが、それは行間に推量するしかない。しかしその数行を心で解く作業は再読するごとに深くなって楽しい。
当時の侍たちはホンの一寸した口論ですぐ刀を抜いて、結果おのれも自殺する。自分の命を毛ほどの重さにも思っていない。主君や主人への忠誠より、おのれの意地が大切だった時代である。
ま、そんな気まぐれ読書を、本職の間にとりまぜて、その中から日々新しいものを発見するように勉める。あとは時に庭に出て、木刀の素振りをやる。始めはゆっくり確実に、次は早く、そして再びゆるやかに収める。むりをしない。三百本位振ると体調、気分があらたまって、また何か積極的に取り組みたくなる。面倒と思って放置している本や、雑品の整理も、こういう時は苦にならない(因みに拙子は中学生時代剣道をはじめ、高校時代は一応部長兼主将をつとめた。剣道「同好会」から正式の「東高剣道部」に格上げしたのも自分である。つまり東高等学校「初代剣道部部長」である。まず部員を集めるのに苦労した覚えがある)。
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前列中央が筆者、中列右が、中高通じての親友、藤森勧。かれはのち京都に住んで、タクシードライバーになっていた。筆者が京都へ移住した時キャッチボールをして、その夜居酒屋で一杯やったのが最後で、かれが少量の酒で酔っ払い、「達さん、わしはもうこんなもんやと思う」とボソッと漏らした一言が、妙に気になっていたが数日後急死した。まだ40歳、これからという時だった。

それから近隣の散歩。大抵はお隣の建仁寺だが、たまに東山高台寺近辺あるいは鴨川を、北の方まで遠征する。堤上の芝生で仰向けに、車の喧騒を遠くに聞いてウトウトする、わが身の倖せを感じる。
ゆき帰りのどこかで行きつけの喫茶店へ寄る。お気に入りは何軒かあるが、その内どこかで紹介することもあるかも知れない。
外歩きはまず一人ではない。その危険性はまずないといっていいけれど、いつ転倒しても大丈夫な強力(ごうりき)の秘書、時には伜が同行してくれる。
夕飯前は缶ビール一缶。これで何か知らん本日終了という感じになる。何と缶一本でいいのだ。むかしは祇園、木屋町鴨川の東西問わずそれなりに遊んだものだが、今は温和しいもの。夜の世界に未練はない。かつての帝王(?)は退位して久しい。二十歳前後、京都サラリーマン時代は毎晩と言っていいほど夜の巷へ繰り出した。仕事を終え社の寮へ戻り、銭湯へ入って近くのうどん屋でビールを飲み、小食して裏寺の方へゆく。ここにホルモン屋があって、ここで下地をつけ夜のまち歩きである。当時は「純喫茶」と称する酒を供する喫茶店のような店が流行っていて、「DELUXE」という大仰な名の店が気に入りであった。夜はそこから始まる——といって少(わか)き日を娯しんでいた。聊か話が脱線してしまった。

今も体力には自信があるけれど、時間が勿体ない。四条は近いので、買い物にも行かねばならぬのだが、なかなか出る暇がない。

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二十歳前後の頃、足繁く通った木屋町のバーのひとつ「ちひろ」の跡
六十年もの後に、ここに立とうとは・・・。

さて、肝腎なところがぬけているのに気がついた。やらねばならぬ書き物のこと。『井伊直孝軍記』と『井伊直弼史記—大老の真実—』の執筆である。
この拙子にとっての人生二大事が、日常に逐われていずれも集中して書けていない。あっち、こっち、ポツポツ。牛歩である。すこしも焦る気持がないので、まだ拙子の寿命はあるということだろう。死が近づくと人は事(こと)に焦るか捨離するかいずれかであって、止める気がない以上、捨ててはいないことになる。

以上のような日々の間に時おりTVの取材がある。今年は年初からロケが何回かあったが、結構楽しくやらせてもらった。スタッフの人々はほとんど表に出ないのだが、番組に対する執念は大変なもので、いつも感心する。同時に勉強にもなる。

館長美の壷
令和五年二月放送『美の壷 特集 “月“』取材風景

伊達政宗の詩に
「馬上少年過、
世平白髮多。
殘軀天所赦、
不樂是如何」

というのがある。この詩の最初の一行「少年過グ」のところをプロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスは「馬上を三日月を背負った少年が過ぎてゆく」とそのまま素直に解釈し、応援歌に取り入れている。つまり「Young boy Masamune」が馬に乗ってゆく——というわけだが、実はこの場合の「少年」の意味は「若き時」である。現実の「馬上少年」をいっているのではない。戦争にあけくれるうちに若き時代はアッという間にすぎてしまった——という意である。当然ながら正しく理解している人々も多いけれど、誤解しているムキも少くない。応援歌などどんな解釈をしても構わないじゃないか——という御方はこの際論外である。野暮ながら一言、因みにこの楽天はファンではないが、いい選手がいて嫌いではない。応援歌もなかなかいい。

たしかに、政宗のかつての壮志からみれば江戸泰平は少しも面白くなかったであろう(詩の結句はそういう意味からいくと「楽しまずんば——」ではない。「楽シマザルハ——」である。一寸も面白くないという政宗の愚痴で、「こんなつもりじゃなかった、俺の人生は・・・」というまことの嗟歎である)。

しかし、拙子における「赦サレタル残躯」は大変有難い。天赦を存分に享受して、幾何かはわが轍のあとを残したいものだ。
まだ「元気」は溌剌に近い。暖かくなったら、将軍塚か、大覚寺奥の梅林の向こうでで伜(せがれ)を相手にキャッチボールでもやろうと思っている。もう数年前のことではあるが、息子はわが速球(——かつて偶然知り合った三笠コカコーラの野球部で、正捕手をしていたという遠者の好青年を坐らせ、知恩院横の川縁りで一時間余り投げたことがある。その他仕事で来た誰彼をつかまえて、よくやった。冬場は受け手がグローブを外したら血がでていたことがあった。迷惑をかけたと今頃反省している。30年ものの昔噺である)を受け損なって顎で受けるというハナレ業をやった。軟球とはいっても痛かったにちがいない。弱音を吐かなかった。そいつが、この間、「球速落ちましたな」とほざいた。もはや夕日の「歓」なく西山の落日に対するのみ——か。何やかやと多忙だが、それを楽しんで81才の男坂を超えてゆきましょう。

一応、わが近況まで(五,三.三)。

さらばよし、あの山を越えて新しき地に水飼はむ空は青空 

わが敬愛する中村孝也先生の絶唱を呈上!
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前後截断録 第70回

(十)主水をめぐる人間関係、及び川手家のその後


 今、筆者の手許に大坂夏の陣の功名詮索帳がある。井伊隊士個々の働きを書き表した留書である。その表書には次の様な表題がある。

「大坂御陣慶長十九年寅極月四日同元和元年卯ノ五月六日同七日面々指上候書付之写」

 上記の帳によって、直孝の面前で各士の功名判決が下された。
その場に立ち会ったのはそれぞれ訴訟を申し出た侍衆と、木俣守安、それに老巧の三浦与右衛門、岡本半介である。該件の主査はもちろん直孝であるが、提訴の宛所となった人物は木俣守安で、これを三浦与右衛門や岡本半介らが補った。このことは直孝を補佐する井伊家の中心官僚は木俣であり、直孝—木俣守安のラインで大抵のことは埒が明いたことを示している。

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木俣守安自筆・出家の砌、江州鏡山にての感懐


 つまりこの二人の中には君臣というより、昵懇な心許せる無二の親友といった間柄であることが知れるわけであるが、そのような井伊家トップの特殊な関係の中において、井伊氏の縁族であるはずの川手主水景倫と直孝には、木俣とは異るある種の疎遠な距離感があった。
ここで前記古記録「大坂御陣慶長十九年・・・・」にある主水と直孝、木俣、岡本の間柄を示す、ある事件を紹介しておく。

 川手主水は五月六日若江表の対木村重成戦で単騎突出、瀕死の重傷を負った。この時主水の左二間程のところ(多分後ろであろう)で主水の負傷を知った斎藤源四郎というのが、これは大変だ、御本陣に知らせなければ、と急ぎこの旨本陣に伝えるべく馳せ行ったら、本陣の入口にいた岡本半介が事柄を聞いた上で「それは無用である」と拒絶した。そんなことはどうでもいい無用じゃ、と半介は一言のもとに主水の危急を斥けたのである。この事件は彼らの関係を記録として今に明瞭に記す証拠資料となった。主水は井伊家首脳から、完全にボイコットされていたのである。

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木俣守安画・岡本宣就賛
​観世音菩薩像

 このような記録をみればわかるが、直孝は何かにつけ主水に辛くあたってきた。根本、二人は相性が悪かったといえばそれ迄であるが、畢竟するところ主水景倫には井伊家の世継(せけい)が大きな時代の流れの中にあって、変則的展開を示しつつあることに気づかなかったということに尽きるのかも知れない。大坂陣以前の主水からみればあまり年齢も変わらない直孝の姿からは、後の栄進は考えられなかったに違いない。あく迄、主水の主君は井伊直継(勝)であって、脇腹から出た直孝など所詮は弁之助(直孝初称)、小僧にすぎなかったのであろう。もとより勘の鋭い直孝には、そんな主水の心中は明々と窺えていた。その結果が現在に至っているのである。

 主水景倫戦死後、家は景倫の唯一子としてのこされた男子が嗣立したが、若くして病没した(この子息の名を「良富」としているが、これは後代に補作された名であって、真正の諱名ではない。しかし、その名は伝わっていない)。今、彦根南河瀬の父の墓の傍に石塔があるが、「河手家譜」には京の鳥辺野に葬ったという別説も記している。

 常識で考えれば川手家と、井伊家は直政が井伊家を再興する以前から関わりがあって、若い直政の乱世に於ける成長を大きく助けたのが先代主水(実名良則とされるがこの名も後代の補作で正しくない。川手主水佑景隆の子)である。のち直政が功なって上州高崎十二万石を家康から預託されたとき、その城代に任じたのがこの先代主水であって、家康のお声掛でその養子となって「主水」を称したのが本稿の主人公、主水景倫である。その後の主水景倫の状況については、既記の通りである。

 この主水景倫戦死に係って、直孝が落胆愁傷し格別の弔いを行った等の形跡は見当たらない。大坂両陣における直孝と主水のやりとり、意趣がらみの交渉はなるほど主従間の問題ではあろう。しかし先代以来の井伊家に尽くした川手家の功績は直孝としても閑却してはならぬことであると思える。それとこれとは別問題である。しかし、直孝は主水の男子に川手の家を継がせてはいるが、その男子の死後川手の家は断絶した。直孝及び川手の関係者(分家川手氏)は主水のあとを考えていなかったらしい。

 つまり主水を後継した男子はその死に臨んで跡をつぐものを予め準備していなかったことになる。これは面妖なことである。侍の家名は代々継続してゆくことが第一義だ。それを川手主水の後継者たるべき人々は配慮していなかったということは、——そこに井伊直孝の意思が大きく働いていたということを意味する。いずれにせよ、川手の宗家である「主水家」はここに断絶したのである。
 これは彦根井伊家創立期における重臣家の、悲劇の第一と考えてよい。

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「夜叉掃部」と戦国生残りの猛者連でさえ畏怖した
井伊直孝壮年時の肖像(木像約49cm)

 因に上記川手本家は、幕末直弼によって再興される。再興川手家の初代となったのは井伊氏一門である、新野左馬助の子敦次郎良貞である。この時代、川手氏実名に必要とされていた「景」の字はもはや忘れられ、「良」の字が通字となってしまっている。これも時代の流れというべきであろうか。

 川手家は再興されたが、栄光も束の間であった。全ては軈て押し寄せる時代の荒波に押し流され、古き時代の矜りあるさまざまの群像は、闇に消えていった。


(了)